ばっぱさんは、ときどき自分の年齢が分からなくなるらしく、「いま何歳だべ、92歳か?」などと言う。もう95歳、7月30日の誕生日がくれば96歳である。昨年末、少し体調を崩したせいか、いま現在、歩行は少し覚束なく、杖か手押し車に頼らなければならないが、その他は特に悪いところも無く、この調子だと100歳までいくかも知れない。若い時に結核を患って病院生活を送ったことがあるにしては立派なものである。
いやばっぱさんならまだいいが、最近は私自身、自分が何歳か分からなくなる時がある。といってばっぱさんのように3歳サバを読むのとは逆で、実際は68歳なのにしばらく69歳になったと思っていたのである。それで「年齢早見表」なるものをネットですぐ見れるようにセットした。8月の誕生日が来たら今度こそ69歳になる。
ただ自分の年齢を一歳多いと思っていたからといって、自分を老人と感じているわけでは決してない。もちろん肉体の衰えは毎日いやというほど味わっている。立ち上がるときなど、ミシミシ膝の関節が軋んで、ヨイショッと掛け声をかけるのを通り越して、何か掴むものがないか必死に周囲を見回すようになった。
簡単に言えば、気だけは若いのである。体力だけでなく知力も急速に衰えていることを認めざるを得ないのに、それでも自分を老人と思っていないのだ。といってべつだん若ぶっているのでも自慢しているのでもない。相当に不幸なことだと思っている。でももしかすると、これは私だけの感じではないのでは? 要するに、現代社会そのものが成熟を許さない時代なのかも知れない。10代、20代で、1歳違えばおじん、おばんと互いに揶揄する時代なのに、本当の成熟ができにくい時代なのではないか。世の中、不良老人やチョイ悪中年がわんさといる時代。
達観、枯淡の境地よ、いずこにかあらん。
幾山河 越えさりゆかばさびしさの はてなむ国ぞ きょうも旅ゆく
(若山牧水)