資料館側で作ってくれた時間表では9時から島尾・埴谷ゆかりのスポット見学ツアーだったが、朝はもう少しゆっくりとの要望もあって、出発は9時半ということになった。資料館からは安部さんと寺田さんが加わって合計7人の乗った車で先ず向かったのは、島尾家本家。一般農家なのに教育委員会の客人を乗せた車が前触れも無く訪れてくるのは迷惑だと思うが、当事者間に暗黙の了解があると信じて、しばし庭先で当家の奥さん、帰りがけに当主の清人さんと二言三言雑談。
次いで島尾家の墓所訪問。昨年6月にミホさんの遺骨が納められたので、敏雄、ミホ、マヤの三人がようやく一緒になった。墓入り口の二つのシーサーは10年ほど前、同人の一人西岡武良氏が寄贈したものである。その隣の島尾家本家の墓石に刻まれた祖父清兵衛の左横に「同 登久子」と書かれていることに初めて気がついた。まさか伸三さんはその事実を知っていると思うが、それにしても伸三さんの奥さんが曾祖母の名前と同じとは、不思議な偶然である。
そのあと「いなかぶり」の舞台である村上海岸、埴谷家代々の墓、島尾敏雄が幼少時から休みごとに帰っていた井上家本家を訪ねた。井上家では当主の奥さん、たまたま居合わせた私のまたいとこの鈴木一男さんがいた。かつて私も小学五年の秋から春にかけて半年ここの住人でもあったので、懐かしい場所である。島尾敏雄に初めて会ったのも、ここの隠居部屋であり、といってそのときの記憶は、島尾敏雄の顔ではなく五右衛門風呂から上がってきた彼の下半身、それも継ぎの当たった股引である。
会館に戻って用意された昼食のあと、いよいよ一時半からシンポジウムが始まるのだが、聴衆も予想を上回って40名ほどが会場を埋めた。さて肝心のシンポジウムの内容であるが、いずれそのうち録音から文字に起こされると思うので、そのときまたご報告することにする。駆けつけてくださった若松丈太郎さんからの援護射撃もあり、まあまあの出来のシンポジウムではなかったろうか。
ところで相馬地方にも小川国夫の熱烈な愛読者がいるはずと読んでいたが、質疑応答のとき、そのことに触れると早速一人の中年女性が名乗りを上げられ、いつの日か小川さんが相馬に来られることを熱く求められた。小川さんに必ずそのメッセージを伝えます、と応えたが、事実、さきほど小川氏宛ての経過報告の最後に、彼女からの熱いメッセージを書き添えた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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