朋あり遠方より来たる

青銅時代の同人で今回小高に来たのは、結局シンポジウムのパネリスト3名だけだった。平沼編集長の話だと、ぜひ参加したいという同人はあと3、4人いたらしいが、病気やら仕事の都合やらで来れなくなったらしい。残念だが、同人の高齢化のことも考えるとやむなしである。
 三時ごろ妻と先ず浮舟に行き、明日会場で渡すはずの資料を5部受け取り、東京からの同人(そのうち三光氏はなんと遠路はるばる神戸からの長旅である、ご苦労さん)の今夜の宿、小松屋旅館を探した。浮舟の側で駅からは5分のその旅館は表通り(といって小高の町は長い駅前通り一本がメインストリートで、後はすべて路地である)からちょっと入ったところらしく、なかなか見つからない。それで駅前通に戻って、親戚のM時計店に聞くことにした。やはりすぐ側だった。
 小高には止まる特急と止まらない特急があり、同人の乗ったのは12時に上野を出て、途中いわきで普通に乗り換えて3時34分に着く電車だった。ありがたいことに春らしい陽気で、降りたことも乗ったことももう何十年ぶりの駅舎はそっくり昔のままの姿で暖かい日差しの中で静かに立っていた。
 電車は着いたがなかなか姿が現われない。もしかして次の電車かな、と思ってとたん平沼氏の懐かしい姿が改札口に近づいた。6年ぶりの再会である。駅のトイレに寄っていた三光氏と近藤氏も遅れてやってきた。三光氏とは神戸に移られてからだからもう10年以上も会っていない勘定になる。
 旧友と会うことがそんなにも嬉しいことだとは、実はそのときまで思っても見なかった。気持ちよい陽気も手伝ったのだろう、こんな感情は十年ちかく味わわなかったような気がする。小説家の眞鍋呉夫さんやその仲間と鎌倉で会食した五月初旬の午後のことをふいに思いだした。つまり心地よい空気感、文学という人生の薬味、そして親しい人たちとのゆったりした会話、そんなものすべてから来る一種の至福感である。
 再会の挨拶のあと、小松屋に戻り、会食までの午後の時間を、共通の友人たちの近況やら、世の中の動き一般に対する危機感もしくは老人の繰言、とあっという間に時間が過ぎてゆく。ときおり明日のシンポジウムのことに触れるが、いや下手に準備するより、ガチンコ勝負(なんて言葉はさすがに使わなかったが)で行ったほうが良くはないか、と牽制しておいた。島尾、小川、青銅という三つの点を線で結ぶことで今回のシンポの意味があるはず、との発言で一応の段落をつけ、夜道を妻と車で帰ってきた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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