雨の日の対話

「どう?元気?なんだか疲れたような顔してるよ」
「疲れてない、って言えばウソになる」
「またまた、そんな後楽園のキャンディーズ引退公演の挨拶みたいなこと言って」
「彼女たちが言ったのは、悲しくないって言えばウソになりますだろ?」
「どちらにしてもその言い方キライ。疲れてるんならはっきり疲れてる、って言いなよ」
「疲れてる。でもこの疲れは、このどんよりと曇って薄ら寒い天気のせいだよ。内面はいろんな怒りが種火のように燃え続けている」
「そうっ、そう来なくちゃ。ところで先日、ある人から魂の重心って何のこと、って質問されて答えはまた別の時にって言ってたな。いい機会だから、ここでちょっと説明してくれる?」
「ああ、あのこと。別なときには重心ではなく錘(おもり)という言葉を使ったこともある。要するに私たちは常日頃、重心を低くして」
「腰を低くして?」
「いやちょっと違うな。間単に言えば起き上がり小法師(こぼし)のように重心を低くしてれば、めったなことで動揺しない、他人との比較で足元がぐらつくこともない」
「たしかそれを小津安二郎監督の撮影技法と比較したことがあったね」
「良く覚えてるね(あたりまえだよね、君は僕で僕は君なんだから)。」
「なんとなく分かるような気がするけど。でもどうやったら重心が低くなる?」
「そうねー、いろいろな答え方ができる思うけど、突き詰めて言えば<君は君でいろ>かな」
「そう言われてもなー。なんだかそんなことギリシャの偉い哲学者が言ったよね」
「だれがそう言ったか、なんてあんまり気にしなくていいよ。だいいち、人間にとって大事なことはもう言い尽くされていて、すべての言葉や表現は誰かの引用でしかないからね」
「イラッてきた?」
「ぜーんぜん。話を先に進めるよ。つまりだね、君は君でいる、自分は自分でいる、ってことはものすごく難しいことなんだよ。それを貞房式格言に(あっもう誰かが既に言ってると思うよ)まとめれば、君は<自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の心で感じよ>ということさ」
「でもそんなことだれもがやってることじゃない?」
「そうかい? たとえば美しい景色を見るとするね、その時たいていの人は<まるで絵葉書みたい>と言って、自分の実感や感動をすでに出来上がった規範に当てはめようとする。そしてそうしないとなんだか落ち着かない。それで思い出したんだけど、今じゃ世界中の人が、たとえば有名人に会ったりするとすぐカメラやケータイで撮りたがる。実はこの現象は、むかし世界中の人が日本人を批判するときに使った例なんだよ。つまり眼鏡をかけたずんぐりむっくりの東洋人がいつもカメラを肩からぶら下げてるって」
「でもそれは日本の先端技術の普及の結果だし、テレビでもクール・ジャパンなどと言って、たとえば<可愛い>なんて言葉が世界中を席巻してる。むしろ誇っていいんじゃない」
「そうかなー。世界中の若者がコスプレにうつつを抜かしてるの図、単純に喜んでいいことかな。フランス印象派の画家たち(だっけ?)に浮世絵が与えたインパクトに一脈通じるって? どうもこの種のジャパニゼーション(日本化)は、先日話題にした日本人の精神の液状化と一脈通じるって気がして仕方がないな」
「またまた問題発言を。ともかくさっきの格言を続けてよ」
「自分の頭で考える、これも実は難しいよ。先日の世論調査のことだって、みんな一人ひとり自分で真剣に考えた末の答えかな? 偉い評論家がそういったから、学校の先生がこう言ったから、テレビの論調もそうだから、それが時代の趨勢だから…でなんとなく答えているんと違うかな
「で、最後の、自分の心で感じるってのは?」
「あゝ、これがいちばん難しい。このことを説明するのは、今日はちょっと無理、君自身ゆっくり考えてみて」
「君自身?その君って私のこと?」
「……あっ、魂の重心・錘で思い出したんだけど、それは文字どおり<重い>ものだよ。たとえば話はとんでもなく飛ぶけど、私にとってはその重さに実質性をもたらしてくれるのは、いろんなしがらみ、たとえば認知症の妻の存在だったりする。病とか障害は確かにうっとうしいもの、厄介なもの、かも知れないが、私にとってはふらふらと重心が上がっていくのを引き止めるもの、物事の正否・軽重・適不適を決める重要な手がかりになっている」
「またまた分かりにくいことをおっしゃりますなー。まっ今日のところはここまでにしときましょうか。なれない議論で疲れてるようだから」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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雨の日の対話 への1件のコメント

  1. Akiko yonei のコメント:

    いつも読ませて頂いております。心の重心を低くして、自分は自分でいる。自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の心で感じよ。・・・そういう生き方をしているかどうかは、日常では分からず、今回の様な非常時に試されるんですね。病気や奥様の存在が先生の重心を低くしていると書いておられましたが、きっとそうなのですね。うちでも自称鬱病で引きこもりがちな主人がいますが、子供共々、彼が私達の重心を低くさせてくれていると理解しています。

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