ベル君からの義捐金

あの大揺れの翌日、盛岡の N. S さんは無事だったかな、と心配になった。聡明な晴眼者の娘さんが二人もいるのだから、とは思ったがが、全盲の彼女は私たちとはまた違った恐怖を味わったはずだからだ。しかし幸いなことに、数日後やっと通じた電話の先の彼女は元気だった。かえって私たちのことを気にかけていたようだ。
 昨年十月初旬、長女の S さんの運転で、御主人と三人で(おっと忘れた、盲導犬のベル君も)訪ねてくれた。私たちが八王子にいたときも、結婚して間もなくご夫婦で(おっとまた忘れた、そのときは初代の名犬コーラル君も)会いに来てくれたから、御主人とは二度目の(最初の?)再会であった。彼女と同じく全盲の彼は、しかし明るくて優しい、そのうえなかなかの男前で、初対面のときに、あゝ賢い彼女らしい選択だな、と感心したことを覚えている。お嬢さんもまた昔の可愛い面影を残したまま立派な社会人に成長していて、愛がすっかりなついたものだ。
 ところでついでだから、今では時効になった秘密をばらす。彼女が S 女子大に入学するにあたって、実は一人のスペイン人シスターと示し合わせて、なんとか彼女を入学させたいと図ったことである。つまり合格発表前に彼女に電話して、同時に受験していた T 女子大ではなく S 女子大に入るよう強引に説得したのである。これは明らかに規則違反であった。しかし現実に彼女の入学が決るまでは教授会でのすったもんだの論争があった。反対派の言い分は、彼女を入学させても盲人用の施設のない本学ではかえって可哀想だし、その上果たして卒業まで持っていけるかどうか疑問だ、というのであった。しかし何のことはない、彼らの本音は、たとえば支援団体などが何かと難題を吹っかけてくるのでは、という実に低次元の懸念であることはだれの目にも明らかだった。
 そのときはっきり分かったのは、日本の社会が障害者に対して真綿で首を絞めるような「おためごかし社会」であることだった。それは彼女が卒業後すぐに留学したスペインと比較してさらに明瞭になった。スペインでは、たとえば ONCE(スペイン盲人協会)など国としても盲人の自立を強力にバックアップする仕組みができていて、スペイン人の好きな宝くじはその盲人協会が一手に仕切っていることとか、官庁などにも盲人が相当数働いている事などにも表れている。要するに、障害者を隔離するのではなく、社会の中に彼らのための場所が当たり前のように確保されているということである。
 彼女のスペイン留学は、『光と風のきずな――私はピレネーを越えた』(1983年)というドキュメンタリー映画になったし、『ピレネーを越えて 典子とコーラルのスペイン留学』(東洋経済新報社、1984年)という本にもなった。因みに典子さんが吹き込んだテープを文字に書き起こしたのは、わが妻美子であった。あゝそうか、ここでイニシャルにした意味がないわけだ。そう、彼女は佐賀(旧姓赤沢)典子さんである。
 いつもの悪い癖で、以上が異常に長い「前振り」で、本題はここからである。実は昨日、その典子さんから義捐金が送られてきた。つまり先日、私がここで言及した、お年寄りたちのための配食サービスの組織ができたことを知って(彼女はどういう仕掛けのパソコンかは知らないがこのブログも読んでいるし、私からのメールにも間違いのない立派な文章で応えてくれる)、盲導犬にと頂いた寄付を、そのために使ってくれないか、と託されたわけである。つまりベル君からの義捐金とはその意味である。ありがたいことで、さっそく明日にでも西内君に渡そうと思っている。
 異常に短い本題へ蛇足を加えるのも変だが、今回の震災で、長らく音信の途絶えていた例のシスター、現在はスペインに戻られている G さん、つまり赤沢さんの入学を共に画策したシスターとの音信が復活した。これは私にとっても典子さんにとっても、思いもかけない震災の余禄であった。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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ベル君からの義捐金 への2件のフィードバック

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    「ベルくんからの義捐金」に即コメントをしたかったのですが、仙台から上京した母を病院に連れていったりで、コメントが遅くなってしまいました。
    先生はこの社会を「おためごかしの社会」と言われましたが、まさにそう!と思います。
    私が子供達を通わせてる幼稚園は、ハンディがある子も一緒に育ち合おうと統合教育をしています。そこには様々な、実に多様な子供達がいます。皆、毎日一緒に楽しそうに通園していますが、この幼稚園にたどり着くまでに、辛酸を舐めた親子も多いのです。彼女達の話を聞くと本当に胸が痛くなります。
    幼稚園には障がい児枠(枠って!)があり、一つの幼稚園に一人あるかないかで、ハンディが重くないことを重視されます。施設を改修したり、付き添いの先生が必要だったりすると断られることが多く、その幼稚園地域一人ですから競争率が高いのです。本当にハンディがある子を受け入れたいのなら、枠を設けなければいいのに、と思います。本当は、受け入れもする良い幼稚園ですよ!というポーズのことが多いのです。だからハンディの選別を平気でします。
    入園した後、多動や学習障害、自閉症だと判ると、途中から追い出される又は出て行かざるを得ないことが頻繁にあります。ある多動の男の子は何ヶ月も園長室に隔離され、お母さんの方が耐えられず退園し、こちらに来ました。「合わない所だと子供がかえって可哀相でしょう?」幼稚園側からよく聞く言葉です。面倒は避けたい、負担は軽くしたいという思惑が透けています。
    「面倒見られない。出て行って下さい。」はっきり言われた母もいます。
    このお母さん達との出会いがなければ、ここまで酷い状況があるとは知らずに過ごしていたと思います。たくさんの親子が涙を流しながら暮らす社会にNOを突き付けたいです。今の福島の状況も同じですね。
    「おためごかしの社会」と先生が言って下さって、少しすっきりしました。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    お早うございます。先日Sさんが、自分だけやけにコメントが多いので、他の
    人が怖れをなしてるのでは、と心配してメールをくれましたが、そんなことはな
    いよ、どうぞ好きなときに好きなことをコメントして、と答えたばかりでしたの
    で、奈々絵さんのコメントはグッドタイミングでした。ありがとうございます。
     なるほどねえ、と思いました。奈々絵さんにはそういう体験がベースにあるん
    だ、と合点がいきました。ほんとうですね、日本の社会、いい人はいっぱいいま
    すが、しかし全体として大事なものを失っている社会ですね。失った、というこ
    とはかつてはそうではなかった、という意味ですが、でも少しずつでも住みやす
    い日本を子供たちに残したいですね。どうぞこれからもよろしくお願いいたしま
    す。

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