えぇよっ!

スペイン・テレビのドキュメント制作のため再び原町区を訪ねてきたゴンサロ・エブレードさん、昨日は西内さんに先導されてFM放送局や市役所などの取材をして午後遅く挨拶に見えられた。わが家での二回目の撮影は、今日の午前中ということになった。私の書斎(と言っても二階の一間幅の汚い縁側の隅に置かれた机周辺のことだが)も、ブログがどんなところから発信されているか、その現場も撮るらしい。でも現実味を演出するために(ウソです、ただ億劫だからです)一切掃除や片付けはしないつもりだ。
 いやそんなことより、昨日の二人の作業の経過を聞いているうち、どうも腑に落ちないことがあった。つまり鹿島区での学級風景を取材することは断わられたらしい。子どもたちがようやく落ち着いたところだから、そっとしておきたい、というのがその理由だ。数人の男たちがどやどやと押しかけて、授業を中断させたりしたら迷惑だろう。しかしもの静かなロブレードさんが、そっとカメラを廻すことで子どもたちが動揺(?)するなんて考えられない。
 要するに、最近の学校運営に顕著に見られる過剰警戒、過剰反応である。最近これとは別なケースだが過剰警戒・反応ということでは同根の、こんなことがあった。『週刊現代』の私たち夫婦についての記事を読んで、ぜひ私と連絡をとりたいと思ったかつての教え子が、母校に電話で問い合わせたところ、教えるわけにはまいりません、と丁重に(だかどうかは知りませんが)断わられたらしい。それで彼女、出版社に勤めているだんなの伝を使って電話番号を突き止めて連絡してきた。
 前にも一度こうした行き過ぎたプライバシー保護についてぼやいたことがある。いま学校や大学でいわゆる生徒名簿・学生名簿は作られていないことに関してである。こういう風潮がいつから始まったか正確には覚えていない。昔は学生名簿を重宝したものである。たとえば県人会や同窓会を作るときなど、名簿で連絡相手がすぐ分かった。教え子の中に母校出身者を見つけて声をかけたこともある。ともかくクラブを作るにも、何かと便利であった。
 ところがいつごろからか、学生名簿は作られず、教師でさえ学生のことを調べるには学生課に赴いて、個別に聞き出さなければならなくなった。確かに名簿が悪用されたり業者に高額で買われたりの弊害はあった。しかし悪い奴は名簿がなくともいくらでも情報を得られることもまた事実。つまりプラス・マイナスを秤にかければ、名簿を作らないことによる不便・弊害の方がはるかに大きい。
 このあいだも、「挨拶すれば友だち増える」のコマーシャルを実地に試した学生たちが、通行人には警戒されるし、あげくの果てに交番まで不審者扱いで引っ張られたという笑えない実話もあった。もちろん学童が不審者に襲われたり、嫌がらせの被害を受けたりした事件はある。しかし昨今の過剰防衛・警戒に顕著なように、社会全体が情報過多に見えながら実は極めて閉鎖的で内向的なものに変質してきたことの方が問題ではないか。つまり乱暴に言い切ってしまえば、そうした閉塞状況こそが、社会のいたるところに危険な暗部を作る温床になってはいないか、ということである。
 大震災前まで大きな問題として騒がれた、例の高齢者の…なんと名づけられたか度忘れした…問題、年々増え続ける孤独死、そして自殺など、そうした社会自体の閉塞状況が作り出したものと断定しても間違いないであろう。
 私個人のことを言うなら、お気づきのように、自身のことのみならずばっぱさんのこと、子どもたち孫たちのことまでかなりの情報はオープンにしてきた。ガキのころの写真もあるかと思えば……いやいやこのブログ自体、他人から見れば露出過多と思われてもいいような表現形態をとっている。でも強弁と聞こえるかも知れないが、衆目にさらした方が安全、という意識もどこかではたらいている。つまりこそこそするより、広い場所にいた方が安全だという意識。薄暗いところに身を潜めるより、明るいところにいた方が安全と言う理屈である。だれの言葉だったか、「ぼく怖くなんかないもーん」という呪文めいた言葉がいつも聞こえるか、あるいは自ら発してきたような気がする。
 でも心配しないでください(?)、そんな私にも隠していること、秘密にしておきたいことが、まだまだ山ほどあり、たぶんそれは墓場まで秘密のままに持っていくでしょう。
 話がずいぶんと広がりましたが、そうした魂の閉塞状況をいちど壊してみる機会としてこの大震災を考えていた私にとって、震災後も精神的状況がまったく変わらないまま、しかし表面では「みんな一つに!」など実質の無い空しい掛け声だけが飛びかっていることに、別の意味で危機感を募らせている昨今であります。
 ところで表題は、最近私の好きなお笑いコンビ「スリム・クラブ」の真栄田賢さんの発した「えぇよっ!」という、なんとも間の抜けた、しかも温かい南国的で開放的な合いの手であります。さあ皆さんも、えぇよっ、と相手を温かく迎え入れる気持ちになりましょう。でも悪い人まで受け入れましょう、なんて極論を言っているわけではありません。良い人だな、と思ったらこちらからも胸襟を開いていきましょう、と言ってるだけですよ、念の為。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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えぇよっ! への2件のフィードバック

  1. ユイコ のコメント:

    いつも先生の「モノディアロゴス」拝読しております。
    お母上様千代先生のどうかご無事で一日も早いご回復を心よりお祈り申し上げます。
    今日は「えぇよょ!」に触発されて書きました。
    いつものように誰に向けてなんのために書いているのか自分でもよくわかりませんが
    元気にしていることを先生にご報告できればと思い書きました。

    国や役所や企業が偉そうに個人情報保護などというと、現実は?と言いたくなります。
    そんなものは現実には駄々漏れです。
    現に、大企業が頻繁に個人データ洩れで謝罪しています。 グーグルアースでは
    私の家の前に置いてある、きったない自転車まではっきりと写っています。
    どこに居たって隠れることなんかそれこそ無理です。
    個人の収入、貯金残高、個人の銀行口座の数、生まれ、病気歴、学歴、すべて
    役所は実質無制限にその個人情報を入手することが合法化されています。

    役所にある住民台帳は、リサーチ会社と名のり、内閣府,省庁、学校などの委託の
    書類さえあればいつでも閲覧できます。リサーチ会社とかいったってそこは
    天下りの集まりにきまっています。結局私たちの税金が使われているのです。
    そのような人たちにわたしの個人情報など見せないで欲しいです。
     
    どの企業が閲覧したかは市の広報に載っていますが、その情報は閲覧する人の
    自由で何とでもできます。役所は閲覧者の審査はしますが情報が最終的に
    どのように使われているのかまでは追跡しません。
    現実に、なんでこんなに毎日セールスやアンケートの電話が名指しでかかって
    くるのか。どうして私の情報を知っているのですかと問えば、合法的にやっている
    という返事です。最近は墓地や墓石のセールスが多いです。やれやれです。

    個人生活の侵害がなされないのは、国や役所のルールから外れて生活していないときだけです。ちょっとでもはずせば、どんな仕打ちが待っているか。
    はずさなくても彼らの気に入らないことをすれば、例えば、原発反対をした人々の
    受けた、企業、役所からのいやがらせ。原発地域住民に、企業、行政がさせる詐欺まがいの同意書へのサイン、自宅訪問。そうして人間関係をズタズタにするのです。
    この不況下にも拘らず、個人の納税や国保の延滞納付者への差し押さえ、その資格停止、福祉施設の老人への虐待、ことばの暴力、いろんな場所で個人はいわれのないターゲットにされているのです。

    個人情報保護法なんかポーズだけです。法があるので大丈夫ですよと市民を
    騙しているだけです。
    その法をありがたがり大上段に振りかざす思考停止の役人、企業人、一般人。
    だいたい実質的に、具体的に個人を何から護っているというのですか。
    私は一番に、個人を国や行政から護ってほしいです。

    国家に対抗することが最大の犯罪であるかに見えるまで、市民の
    義務を称揚する。(「危機に生きる」ダニエル・ベリガン280ページ
    佐々木 孝訳 私家本。)と述べられているように、個人は常に国家の
    目にみえない義務遂行へのプレッシャーに晒されているのです。

    社会の閉塞状況はじつは個人を無視した社会全体の法令、条例、おためごがし、
    が蔓延しているからおこる当然の帰結です。
    気にいらない個人の行動を排除するためにどこかの知事のように条例をつくる。
     
    「憲法の保障が意味をもつのは、大多数が嫌悪する少数者の思想や信条である」憲法や裁判は誰のためにあるのか。答えは明快だった。と2010年に亡くなった裁判官伊藤正巳のことばが新聞にありました。憲法の保障の意味をも実感できない人が統治している国に個人の尊厳の保障のほんとうの意味が具現されることはほど遠いと思います。

    そのくせ、役所は年金データを無くすし、この東日本大震災の被災者へのお金の援助は遅れるし、放射能の情報は隠すし、大企業の利権だけは守るし、沖縄県民には嘘をつく。
    なぜ公害訴訟解決に何十年もかかるのでしょうか。

    国、大企業の発展、繁栄とは終わりの無い欲望の実現に向かって
    まやかしの生を人に押し付けていることとしか思われません。

    暴力のない民主主義のシステムがやはり現時点では一番すぐれている国の方針を
    決めるシステムだとは思いますが、この民主主義制度のもとにも古今東西たくさんの、
    取り置かれた、忘れられた個人の犠牲があるのだということを私は肝に銘じたいと
    思います。

    「信仰、希望、愛。そのなかで一番偉大なものは愛である」わたしの好きな聖書のことばです。特に「一番偉大なもの」というところがいいです。
    「愛と優しさ」とは深澤哲郎様がお好きなことばですね。同感です。
    原発のリスクや恐怖を先送りにするのではなく、クリエイティブに自然エネルギー供給
    のことをみんなで考えるほうがずっと楽しいのに。
    長い、長い長すぎる!! 天井桟敷からのお声がきこえます。(静笑)
    今日、今年はじめての蝉が鳴きました。
    本格的な夏がきました!!
    先生、奥さまご家族皆様と「モノディアロゴス」読者皆様のご健勝を
    心よりお祈りしつつ失礼申し上げます。 
    いつか先生と奥様と皆様でオフ会ができるといいですね。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    オフ会というのでしょうか、西内さんもいつかそんな集まりを持ちたいね、と言ってます。常磐線が開通すれば、皆さん集るのに都合よくなります。そんな日がいつか来ることを、私も強く願っています。

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