べつだん理論的アナーキストを志したことはないし、そちらの方の勉強をしたこともない。つまり気分的な無政府主義者というわけだ。だから国家の消滅あるいは死滅の後の見取り図など持っているはずもない。要するにきわめて腰砕けのアナーキストである。確かに近代以後の国民国家にそれなりの歴史的存在意義があったことは認めよう。しかし現代ではもはやそのプラス面よりマイナス面の方がはるかに多いと漠然と思っているに過ぎないのだ。
このところ、戦後日本の表層から一応は消えていたはずの国粋主義が、軍国主義とは言わないまでも悪しき国家主義が、またぞろ表層に露出してきている。この種の傾向を持っている人たちが言う「ふつうの国」というのは、先に述べたように近代国家像の延長線上にある国家のことであって、この程度の国家観ではまたもや愚かしい限りの利権と覇権争い、そこまで行かないにしてもくだらぬ面子やエゴのメカニズムに陥るのはバカでも分かる道理なのだ。
オルテガの『個人と社会――人と人びと』が分析しているように、個人と社会の関係は実に複雑である。つまり社会は人間が作ったものであるからには人間的なものではあるが、しかしそれよりはるかに非・人間的な側面を持っている。まして、社会の究極形たる国家は、その非・人間性が純粋培養された形で、つまり考えられる限り最高の純度で固められたものである。国家論が、オルテガでさえ究明をあきらめたほど神秘主義やオカルティズムに似た難しさといかがわしさを持っているのはそのためである。
だからろくに政治学を齧ったこともない私など軽はずみに近づかないほうが身のためであろう。ただ国家とはいったい何者あるいは何物ぞ、と考えざるをえないようなことが息子の嫁の来日に関して起こったのである。
なにも難しく考えたわけではない。ただ単純に、オルテガも考え及ばなかったであろうことをつい想像してしまったのだ。つまり国家という非情な装置も、結局は来年に定年を控えて残ったローンをどう払っていこうかと考えている冴えない男や、勤め帰りに今晩のお惣菜に何を買おうか思案するいささかトウの立った女の匙加減で、在留資格認定が交付されるか、それとも不交付になるかが決められる、という想像である。たとえ形式上は種々のチェック・ポイントがあり会議らしきものが持たれたとしても、である。
【息子追記】立野正裕先生から頂戴したメッセージを転載(2021年3月11日記)。
埴谷雄高の国家の死滅という夢想に二十代のころは共感していましたが、あるいは佐々木先生も影響を受けられたのではないでしょうか。