同じ町に住む松永章三さんという詩人から新しい詩集『天崇』をいただいた。失礼だがいわゆる詩集という感じがあまりしない、どこかのPR誌と間違われそうな装丁の詩集である。しかしお礼状を出す前に一応はさらっとでも読まないと、と思いページをめくっていくうち、胸の中で靜かに、しかし強く共鳴するものが生まれ、それがじわりと広がっていった。すると最初は素朴というか、いささか生硬に見えた言葉や表現までもが、いつのまにか過不足なくそのところを得た凛とした詩のことばに変わっていた。
詩を読まなくなってから久しい。詩や詩人に対する密かな偏見がぬぐい切れないからか。俳句など短詩形の詩によく見られる、省エネ詠法、つまりことばや表現をぎりぎりまで彫琢する労を厭っていい加減なところで切り上げ、後は読む人の深読みに期待するといったズルさが好きになれなかった、とでも言えばいいだろうか。そんなことなら、まずとことん言葉で表現する努力をしてみろよ、もうその先は行けないというところまで苦しんでみろよ。
でも松永さんの詩を読んで、真っ先に感じたことは、若さである。まるで青年、いや少年といってもいいような瑞々しさである。お会いしたときの印象でも私よりかなり年長でいらっしゃるのに(著者略歴によれば1924年生まれ)、その若々しさはどこから来るのだろう。おそらくそれは、一切の夾雑物やら付加物が除かれた裸形のことばが実に自然に置かれているからかも知れない。
石
石に惹かれる日です
小も大も
どの顔も
億年の表情で
足りています
このしゃりしゃりとした肌触りの言葉は、生来のものか、それとも長い修行の末のものか。さしあたって今そのどちらかに決めることはできない。ただ私の胸のうちで何かがはじけたのは愛妻の死をめぐるいくつかの詩篇を読んだときからであり、それが彼の詩の強力な光源であるらしいと気づいたときからである、とは断言することが出来る。
「序」を寄せた■氏は松永さんの詩をいみじくも「教会カンタータ」と評したが、「亡妻との死期の床の約束で/じぶんなりの死後のイメージを持てた」(「死後学辞典」)詩人に心からの共感と賛辞を贈りたい。