名前のことなど

自分の名前の由来を聞いたことはないが、そろそろバッパさんに聞いてみようか。前にも書いたことがあるが、中絶だか死産だかで(あれっ、その違いは大変なもので軽はずみには言えないぞ)この世に登場しなかった私の弟(もしそうだったとしたら、今まで彼のことをいっさい何も考えてこなかったというのは、大変失礼というか、いや実にまずいことだぞ)の名前がヤスシだったと聞いたことがある。兄がヒロシでわたしがタカシ、次がヤスシだとしたら、これはもう芥川三兄弟に倣ったとしか言い様がない。
 文豪芥川龍之介の三兄弟と言えば、長男が俳優の比呂志、次弟が第二次世界大戦で戦死した多加志、末弟は作曲家の也寸志である。ごらんのようにすべて三文字である。われら三兄弟は、博、孝、そしてたぶん泰(?バッパさんに聞かなくちゃ)と一文字だが、順序からしてやっぱり芥川三兄弟を真似た確立は高い。
 ところでそんなことを思い出したのは、手もとにあった『ちくま日本文学全集中島敦』を見ていたときである。中島敦は以前から好きな作家の一人である。有名な「山月記」をはじめ、実はまともに読んだことも無いのに好きだ、とは変な話だが、文章も好きだし、ぼんやりとながら知っている人柄も好きである。それで彼のその本をぱらぱらとめくっていたのであるが、そういえば長いあいだ読んでなかったなー、一時期この中島敦と石川淳、それに梶井基次郎を指標として創作を志した時期があったなー、と思い出したのである。
 ついでに、そのころ初めて生まれる子供のために適当な名前を思いあぐねていたとき、中島敦と石川淳のどちらかから名前を拝借しようと考えていたことまで思い出した。子供は病院ではなく産婆さん(最近では助産婦と言うのだろうが)のところで生まれたのだが、その日の朝、その助産婦さんのところに出かけようと川沿いの道を歩いていったら、向こうから前夜から詰めていたバッパさん(まだ若かった)が片手でピースサインをしながら自転車でやってくるのが見えた。側に来るなり、興奮して「双子、双子だどー」と叫んだ。
 というふうに覚えているのだが、その思い出にはいくつか疑問点がある。たとえばそのころ家には電話が無かったのだろうか、通勤にも使って乗りなれているとはいえ、はたしてバッパさん、ピースサインを送りながら片手で自転車をこげただろうか…生まれる直前まで双子であることが分からなかったというのは、聴診器を当てたとき心音が重なっていたから、という助産婦さん(たしか今でも開業してると聞いたが、機会があればご挨拶しなければ、と思いながら七年近く経ってしまった)の説明があったが、電話とピースサインは謎のままである。
 つまり、そういうわけで、用意していた二つの漢字は、二つとも使ってしまったということである。ただし今になって思うのは、男の子には敦を、女の子には淳の字を使えば良かったかな、と思っている。そのわけは言えないけれど。

今日いつもの訪問の際バッパさんに聞いてみた。するとヤスシは示偏に見るという字だと言う。視?どう考えたってヤスシとは読めない。念のためネットの人名一覧で調べたが、該当しそうな漢字はない。バッパさん、記憶のどこかで取り違えてしまったのだろう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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