★★お知らせ★★
ロブレードさんからのご連絡ですが、スペインのテレビに南相馬そして西内さん、そして貞房とその妻、そして愛の姿が映ってます。お暇のときにでもどうぞご覧ください。南相馬は9分をちょっと過ぎたころから出てきます。新しい報告が日々加わっていくので(10/3/12)のところ、今日は上段八番目になってます、を選んでください。
なお、これについて、同志社大学の立林良一教授から貴重なご意見が寄せられているので、右のコメント欄をぜひ覗いてみてください。お知らせはここまで。
Informe Semanal – 10/03/12
天気予報ではこどもの日はあまり天気が良くないと思っていたが、朝から実にさわやかな五月らしい天気になった。こんな日は、本当は美子を車に乗せてドライブにでも連れ出したいのだが、まだその元気が出てこない。愛たちは午前中、イオンというショッピング・モール(というのかな?)の中にある子供遊び場に行ったようだ。
朝方、或る人というか或るグループへの決別の手紙を書いた疲れからか、陽光の明るさとは対照的に、なにか暗い寂しい気持ちが続いていた。そんな折、通りがかりの書棚に見覚えのある黒い布表紙の本を見つけた。『合本 三太郎の日記』(角川選書、1973年、12版)である。黒い布は、確か着れなくなった礼服の端切れを使って装丁したものだ。
まともに読んだ記憶はない。しかしおそらく中学生のとき(はや茫漠たる過去である)、そのころ愛読していた『次郎物語』の世界からいつかは『三太郎の日記』の世界へと旅立つんだ、と思っていたことを、あるときふと思い出し、書店で求めたものらしい。大正年間の青年たちにとってはそれこそバイブル的存在だったようで、強い理想主義に貫かれた内省の書である。
ところどころつまみ読みをしてみたが、さすがに読み続ける気にはならない。内容がつまらないからではなく、こちらがもはやそうした青年期特有のねちっこい(?)思索癖についていけない年齢になってしまったということであろう。しかしこういう本が若者たちを捉えて離さなかった時代があったということは、それはそれで羨ましい気がしてならない。つまりあまりにも味気なく没理想主義的な最近の世相と比較してである。
ところでここ数日のあいだ、かねてから懸案だった二つの問題が共に解決した。一つは或る銀行さんとの相続預金処理をめぐってのもの、もう一つは或る介護サービス事業所とのもの。二つともトラブルとまではいかないが、こちらの主張と相手側の見解に相違が生じていた。しかし最後の段階で、双方の本音がしっかり噛み合って、互いに対する理解が深まってめでたく終結したのだ。
つまり両者とも、約款や規定に内在する矛盾点をそれなりに感じ、それなりに打開点を模索していたわけで、最後は現行制度にある不備や矛盾を顧客あるいは受益者と対立する形ではなく、話し合いと相互理解の中で一つ一つ乗り越えていく、こうして少しでも住みやすい社会にしていく事が大事だ、ということが分かり合えたということだ。
二つとも最後は、貞房氏の次のような殺し文句が出て気持ちよい手打ちとなった。「お互い、あゝいい仕事をした、と言って死にたいよねー。」いや冗談じゃなくそうじゃない? 面と向かって本音でぶつかり合えば、互いの中に眠っている理想主義や英雄精神が目覚めてくるはず。
ということは、今朝の決別は、相手と面と向かってではなく、電話や手紙を介してのものだったから、あそこまで縺れてしまったのかも知れない。かと言って、いつも差しで話し合えるわけでもないわけで…いや正直言うと、今朝の決裂は或る障害者の扱いをめぐってのものであり、差しで話し合ってもとても譲れる話でなかったし…「兎角に人の世は住みにくい」(漱石『草枕』)っすなー。まっ、めげてはいませんけど、かといって意気軒昂っちゅうわけにはいきませんなー。
吉田松陰が師恩友益という事を言ってますが、人生において、良い師を持ち、お互いに切磋琢磨できるような有益な友との付き合いは自己を向上させてくれるものだと思います。作家の三浦綾子さんがこんな事を言ってました。「私たちの幸せは、どんな人間と知り合ったか、どんな本と出会ったかということと、深い関わりがあると思う」。人生を真剣に考えれば「内省の書」を探し、読むのも必然なのかもしれません。そういう本は愛読書となり、繰り返し手垢がつくほど読み込むはずです。私も何冊かそういう本を持っていますが、読まなくとも傍において眺めているだけで心が安らかになるものです。先生の『新たな人間学を目指して』の中の「たちまちまた良心を発し、かつ勇気を加えられる」という言葉を思い出しました。