何を今さら!

今晩ものんびり本の話でもしようと思っていたら、夕食後ネットでこんなニュースを見つけた、まず読んでいただこう。

震災関連死、南相馬が282人で全国最多

 復興庁は11日、東日本大震災に伴う避難で体調を崩すなどして亡くなり、「震災関連死」と認定された本県など10都県の1,632人(3月末時点)の内訳を公表した。市町村別で南相馬市が282人と、対象77市町村の中で最多となった。続く宮城県石巻市178人、仙台市143人と比較しても突出、同日開かれた関係省庁でつくる原因究明の検討会初会合では「南相馬市がなぜ多いか調べるべき」と問題提起された。
 検討会では6月末をめどに、本県と岩手、宮城の3県で調査し、8月上旬にも再発防止策をまとめる方針を決めた。調査対象は関連死の死者数が多い市町村のサンプル調査となる見通しだが、本県の場合は東京電力福島第1原発事故の影響を考慮し、原発事故で避難指示が出された市町村も対象とする。
 本県の震災関連死761人の年齢別内訳も示され、21歳以上65歳以下が61人、66歳以上が700人で高齢者が約9割を占めた。

                  (2012年5月12日 福島民友ニュース) 

 「南相馬市がなぜ多いか調べるべき」だと、ざけんじゃない、何を今さら! 放射能は炭疽菌やサリンのような即死につながる猛毒でもないし、ペストのような伝染性のものでもない。だったら答えははっきしていたはずだ。老人や病人を避難させたり搬送させたのは明らかな間違い。このブログで初めっから叫んでいたのに、誰も耳を貸さなかった。
 誰が悪い? そうだね、愚かな行政はもちろん悪かったが、落ち着いて考えればどう対応すべきか分かりそうなのに、ただただ狼狽たえ、慌てふためいた皆も悪かったんだべ。そうとしか言いようがない。そうっ、行政のせいになんかしないで、己の愚かさを各自深く反省せい! そして亡くなった老人たちや病人たちに、心から哀悼の意、いやいやそんなもんじゃない、心から詫びよーーっ!
 いやーそれにしても、行政も愚かだったけれど、マスコミも負けず劣らずアホだったし、その反省は未だにしていない。根拠のない脅威論をこれでもかこれでもかと繰り返し報じ、その結果……
 やーめたアホらしい。もう言い飽きた。物言えば唇寒し、おいおい、まだ桜が散ったばっかりだっちゅーうの! 
 続けて本の話をしようかと思っていたけど、今はそんな気は逆立ちしても出てきませんぞなもし。もう考えるのもやーめた。


追記
 そうだ、腹が立ったついでに、もう一つ腹立たしいことを書いておく。実は二月前ほど、或る出版社から原稿執筆の依頼があった。つまり『東北近代文学事典』という企画のその島尾敏雄の項を執筆願いたいというものだ、挨拶文を読むと、「とりわけ今年の三月に突然の災害に見舞われた東北の地から、このような形で発信が行われることは、地域の復興と発展の力となるのみならず……」と、なかなか殊勝な意図のもとの事業かな、といったんは思い、執筆承諾のハガキを出したのだが、そしてその締切がこの間の連休の前日だったのだが…。
 今まで島尾敏雄については何度も書いてきたし、1500字の原稿など連日モノディアロゴスを書いてきた自分にとってはお茶の子さいさい、と高をくくっていた。しかし連休前に書くのはちと癪だから、過ぎてから一気に書こうと思っていたのだ。
 しかしである。まず先ほどの文章で震災に触れた部分が去年と今年を取り違えているのはまだいい(かな?)。しかしその震災を機に東北の文学を再考してみようという企画全体の趣旨の真意が疑われるような事実認識があることに気づいて、とたんに書く意欲を失ってしまったのである。つまり島尾敏雄の墓が今も警戒区域にあることを編集者たちは承知しているのか。そして原稿依頼の宛先が南相馬市であることになんの感慨も持たずに書類を準備したのか、ということである。
 今もなお、島尾敏雄や埴谷雄高(の先祖)の墓は警戒区域の中にあって墓参すらままならない。こんな状況下にあることを無視して東北の文学を語ることなどできないのではないか。つまり近代日本において東北が絶えざる収奪の対象であり、いわばその総決算が今回の原発事故でもあるという根本的な事実認識を無視して東北の文学を語ることが許されるのか、という問題である。
 たぶんそのあたりのことは編集者の意識の中に無かったのではないか。そんな企画に協力する考えなど持ち合わせていないことを、締切が過ぎてからやっと気がついたというお粗末。さて出版社がどう出てくるか。私としては企画から下ろしてもらうことに腹は決まっているが。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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何を今さら! への3件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     高齢者にとって最も大切なことの一つは、今まで生活している環境の維持だと思います。私にも高齢の母がいますが、4年前に肺血栓塞栓症という病気になり近くの循環器系の病院に入院させましたが、そこでせん妄になり、その後遺症が今でも残っています。入院日数は10日ぐらいでしたが、生活環境の変化は高齢者にとっては精神的ダメージが私たちが考えている以上に大きいと言う事だと思います。「震災関連死、南相馬が282人で全国最多」、この数字の殆どは「老人」の無意味な避難による環境変化のための精神的ダメージが引き金になっていると思います。妻と母を介護していて感じることは、傍にいて温かい言葉をかけてあげること、そういう精神的な面が大切で、特に精神的疾患を持っている老人は寂しいと本人は感じているケースが多いように経験上思います。曖昧なデータをもとに放射能という漠然とした恐怖心で、事務的に避難され亡くなった方の命。現実は、老人にとって、放射能より生活環境の変化の方が危険なことだったという事実を私たちは忘れてはいけない。亡くなられた方たちのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    エトワールさん
     あなたのいつものように緻密で微細にわたるコメントには感心しますが、しかしそのようなうがった論説、しかも間接受け売りの知見が至るところに増殖して、じわじわと被災者を苦しめているということをまず理解してください。たぶんご親族など被災されている方もいてあなたにはけっして他人ごとではないのかも知れませんが、それでもあなたの言うことは、結局はあくまで外部からの、高みからのコメント、「解説」です。
     もう一度言います。除染など必要不可欠な対策はこれまで以上に迅速かつ徹底的にやってもらいたい。そして万が一、将来放射能の影響で悪影響が出るような場合は、以前から主張しているように、無条件で完治まで国が全面的に責任を取るべきです。しかし被災者にはもうこれ以上の情報は勘弁願いたい。それだけです。
    ■ 付け足し あなたのような考え方をしているなら、私は今日ここにこうして生きていないでしょう。あやふやで無責任な「解説」を無視して、或る時ここにこうして生きることを決断したわけです。さまざまな憶測やら意見やらに絶えず目を配りながら、そしてそれらをすべて呑み込んで、それでもなお自分の決断に迷わない、なんてことは、まあふつうの人間にはできない神業です。幸か不幸か、私はその「ふつうの人間」なのです。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    エトワールさん
     私の考えは既に述べた通りです。いまさらことわるまでもなく、このモノディアロゴスは、原発禍についての正確で蓋然性の高い対策や情報を発信する場ではありませんし、それについて議論する場でもありません。そのことはこれまで私の書いたものを続けて読んできてくださって方には充分ご理解いただいているものと思ってます。さまざまな真実らしき情報がこれだけ飛び交っている中では、結局は自分が真実と思うものを信じて進むしかありません。偉い人の例を出すのは気が引けますが、機会があればウナムーノの「真理とは何か」というエッセイを読んでみてください。
     簡単に言えば、「外的言語と主体の内的判断の合致」、もっとくだいて言えば、その人の発する言葉がその人の内的判断、内的真実に合致するかぎりそれは真理となる、ということです。もっと手前味噌的に言えば、このモノディアロゴスで使われている言葉は、その時々の書き手の内的真実を、もちろん巧拙・出来不出来さまざまですが、できるだけ裏切らないことを唯一の基準に書かれた文章群だということ。もちろんそれが良いか悪いか、好きか嫌いかの判断は、まったく読む人の自由で、これまで多くの人が集いましたが、また多くの人が去っていきました。
     さらに言えば、生きるとはたくさんのデータを集めての品定めではなく、時々刻々待ったなしの決断・選択の連続だということ。その意味では先日も書いたとおり「生は急ぎ」です。
    ★補足 世の中には、客観的に見て正確で、そして時には正しい知識や見解を持ってはいても、その持ち主の顔が見えないということがままあります。でも科学的真理ならそれでもいいですが、人間的真実もしくは実存的真実はすべからく顔が見えるものです。乱暴に言い切ってしまえば、ある人を信じる・信頼するということは、その人の言葉を信じるわけではなく、その人自身、つまりその人の生き方を含めたその人自身に信を置くということです。

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