涙の総量に見合った幸せを

ばっぱさんの万葉の旅の成果50首は、実は文集『虹の橋』にすべて収録されていた。未収録のものがあれば紹介しようと思っていたが…でも約束は約束だから、いくつか好きな歌を並べてみる。

     茜色の夕日とまがふあかり差し
           弥勒の姿壁にうつれる

     見はるかす平城宮跡の芝原に
           初秋の陽ざし強く照り映ふ

     簡素なる部屋に小さき机あるのみ
           人をつくるは人にてありなむ

     いつの日か訪ねんものとあくがれし
           万葉の旅を師と共にゆく

     悠久の時の流れの中に居て
           砂を踏み居る一瞬の我

 歌のことはよくは知らない。だからこれらがいい作品かどうかは知らない。しかしばっぱさんらしい歌であることは間違いない。特に萩の松下村塾を訪ねたときの歌と思しき「簡素なる…」は、生涯教員であったばっぱさんの教育哲学が仄見えて微笑ましい。また鳥取砂丘を歌ったと思われる最後のものは、福島女子師範時代、初めてストライキを主導した(らしい)ばっぱさんの骨太な思弁癖がたくまずして表出されている一首である。
 ところで昨日、以前ここで紹介した小高の又従姉のS. Mさんとその実家である本家のお嫁さんが、ばっぱさんへの弔問の意味もあって突然訪ねてきた。本家、つまりばっぱさんにとっての本家、いやちょっと複雑なので実名で説明すると、ばっぱさんの父・幾太郎は井上家の次男だったが、結婚後、嫁つまりばっぱさんの母親・仁の実家である安藤家の跡取りがいなくなったため、ばっぱさん八歳の大正8年に幾太郎は安藤家の養子になるのだ。つまりばっぱさんの旧姓そのものが井上から安藤に変わったわけである。あゝややこし。
 本家のお嫁さんと言っても、さて何歳だろう、もちろん私よりずっと若いが…要するに私の又従弟の長男のお嫁さん…やっぱりややこしい…で、彼女と話しているうちずっと忘れていた一つのことを思い出したのだ。つまりその彼女の叔母さんに当たる人は、私の一家が(私が小学五年の秋)北海道からその本家の隠居に転がり込んだときには今の愛ほどの女の子だったが、昔の農家に時おり起こった悲劇、つまり囲炉裏に落ちて顔面に火傷を負っていたのだ。本当に可愛い子だったのに。
 その後成長してから手術を受けたと風のうわさで聞いたことがあるが、あれからずっと幸せな生涯を送ってきたと思いたい。でも今度の大震災をどう潜り抜けたろうか。お二人にあえて聞く勇気がなかった。今の愛の年頃からその後どのように生きてきたのか、ただ想像するしかないが、彼女だけでなく、その親たち・祖父たちのことを考えると…ともあれ彼女自身そして親たちが流した涙の総量に見合った、いやそれをはるかに超える幸せを掴んだことを心から願わずにはいられない。
 日ごろは忘れていた血の繋がりについて、その温かさ、有難さ、懐かしさを改めて考えさせられた午後となった。いまでも親戚付き合いは続いているであろう。しかしどう考えても、かつてのような強い繋がり、確かに時には鬱陶しいが、しかし理屈ぬきに互いの心の中を温かいものが流れる繋がり、いま流行の言葉で言えば絆が、ますます弱く希薄になってきたのではと思わずにはいられない。
 近代がもたらした人間関係の質的変化、はっきり言ってしまえば希薄化、を簡単に時代の趨勢であると言っているだけでいいのであろうか。大震災後とりわけはっきり見えてきた日本社会の底の薄さ、私の言葉遣いで言えば魂の液状化現象について真剣に考えなければならない時期に来ているのではないか。核家族なんていう言葉がいまや死語になってしまったという程度まで、社会の液状化現象は進んでいると考えざるをえないのではないか。
 人と人の繋がり、それは血や民族や国境を越えて広がるのが理想とはいえ、その基本・原型はあくまで親子・兄弟・親戚関係であり、そこが強固でなければ博愛もただの空証文に過ぎないからだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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涙の総量に見合った幸せを への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     自分の詩は「必ずひとつひとつ十字架を背負ふてゐる」と主張されていた八木重吉というクリスチャン詩人のことを『モノディアロゴス』2003年5月26日「青桐文庫」の中でばっぱさんが非常に好まれていたと先生が言われていたことを思い出しました。ヒルティが『幸福論』の中でこんなことを言ってます。「すぐれた文学、同様にまた、ほんものの芸術はすべて、苦悩から(情熱からではなく)生まれる。苦悩がなければ、深さを欠くことになる」。同じような指摘を先生も『モノディアロゴスⅣ』2010年8月16日「障害を持つことの意味」の中で言われています。私は歌のことは全く知りませんが「弥勒の姿壁にうつれる」「人をつくるは人にてありなむ」という言葉から何故か崇高な精神性を感じます。それは、中国でご主人を亡くされ若くして一家の大黒柱として大変なご苦労にも拘らず、敗残兵にわが子を差し置いて西瓜を与える豊かな人間性から滲み出てきたもののように私は思います。

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