胃瘻って知ってる?

今週の月曜の朝方、美子は少し熱があったので訪問入浴をキャンセルしたが、その後も微熱が続き、クリニックから出してもらった三種類の薬を毎食後飲ませてきた。そんなわけで、昨日のデイ・サービスも休みにしてもらったが、褥瘡の手当てがあるので、四時半にクリニックに行った。でも一人で福祉車両を操作するのは初めてなので、お昼ご飯のあと少し予行演習をしてみた。思っていたよりは簡単。これなら時々ドライブに連れて行くこともできる。
 ところでクリニックで右足踵の褥瘡を見てもらったのだが、患部の皮膚が死んでいるので、ピンセットと鋏で表面を薄く削ってもらった。しかし完治するまで、来週から週二回連れて来るようにと言われた。これからはエアーマットを使うなどして褥瘡の再発にはじゅうぶん注意するつもりだが、少し甘く見すぎていたようだ。それにしても体といい細胞といい不思議な仕組みをしているものだ。つまり信じられないくらい丈夫かと思えば、ちょっとした不注意でもろくも壊れていくということである。
 風邪のせいか、このところ美子に食欲がなく、口を開けさせるのにずいぶん時間がかかる。もっとも、しばらく前から昼食と夕食は頴美が受け持ってくれるので大助かりだが、いつかは咀嚼すこともできなくなり鼻や口から栄養を摂ったり、あるいは胃に穴を開けてそこから液体で食物を摂るようになる日が来ることも覚悟しなければならないであろう。医師の話だと、その方法つまり胃瘻(いろう)の手術そのものは病院で30分ほどでできるそうだが、果たして美子にそれが必要になるのはいつの日のことか。
 それで気になってネットでいろいろ調べてみたが、胃瘻についてはさまざまな意見があることを知った。たしかどこかの知事さんは、寝たきり老人や胃瘻患者などはお金の無駄遣いだというようなことを言ったようだが、一部の人は本気でそう思っているらしい。これまでは寝たきり老人とか無意味な(?)延命措置などという問題をまったく他人事のように聞いてきたが、そろそろ自分たちの問題として考えなければならない時期になったようだ。
 ともあれ結局は介護する人なり共に生きる人たちの問題……いや他人がどう考えるか、ひいては社会がどう判断するか、確かに即答など不可能なほど複雑な問題かも知れない。しかし知事さんのように、彼らを社会のお荷物と考えることに関しては、即座に、断固として、それは間違っていると自信をもって言うことができる。
 あえて乱暴に言い切ってしまえば、たとえば全国に40万人近くいるという胃瘻患者への手当てを打ち切って、それで浮いた(?)お金を他の出費に当てたとしよう。でもそれでどれほどの生活水準のアップに繋がるというのか。いやそうではないな、つまり患者への補助を切り捨てて保たれる〈営まれる?〉生活にそもそもどれほどの価値があるというのか。つまり今晩のおかずが秋刀魚の塩焼きから少し厚めのビフテキ(なんていまどき言うのかな?)食ったって、それで幸福かい、ということだ。
 いやどうもうまく言えない。先ほど言いかけたように、他人がどう考えるか、ひいては社会がどう判断するか、実はどうでもいい〈本当は良くないが〉。私自身はどう考え、どう対応していくか、と言えば、いま現在がそうであるように、自分の名前も、夫の私が誰であるかも認識できないだけでなく、自分ではまったく何もできなくなった美子でも、私にとっては元気なときの美子とまったく同じ美子であり、これからさらに症状が進み寝たきりになったとしても、最後まで美子の側で暮らしたいと願っているということだ。
 つまり美子が私の介護を必要としている以上に、私はこういう美子に支えられて生きている。変な話だが、元気な美子と認知症の美子と、今目の前に二人同時に現れたとしたら、たぶん私は今の認知症の美子を選ぶだろうと思う。つまりより愛着を感じるであろうからだ。倒錯した感情だって?そうかも知れないが、事実は事実だ。良い子ぶるなだって? 別に無理してよい子ぶってるわけじゃない。それにどこかでもう書いたように、「……ぶる」、つまり何かの役を演じることは人間存在の基本ではないか。本当の、真実の私などどこにいる? 要するに近代になってやたら強調されるようになった人格だって、その語源であるペルソナという言葉は、もともとはお面を意味していたそうな。 
 そう、上は聖人から始まって、下は大悪党まで、誰もがこの人生劇場の配役であり、だったら被ったお面は最後まで取りたくもない、と考えている。おやおや今夜は馬鹿に神妙な御託をならべたこと。おまけに最後に来てえらーく軽い話をするようだけど、でも考えてみるとなかなかいいこと言ってるよさんまは。えっ、さんまってあのさんま? そう、彼と大竹しのぶとのあいだにできた娘に「いまる」という名前をつけたこと、その理由がなかなかいい。つまり「生きてるだけで丸儲け」だからだって。しのぶはちょっと違う理由づけをしてるがそれもなかなかいい、すなわち「今を生きる」だって。さんまのアホさ加減も、この命名一つですべて帳消しにしてもらえるほどのヒットですぜぇー。
 ところで美子は、今日の午後あたりから調子を戻してきて、夕食は頴美のおかげもあって「完食」だった。ありがたいことだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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胃瘻って知ってる? への3件のフィードバック

  1. アバター画像 阿部修義 のコメント:

     介護ということを突き詰めて考えた時、介護には平常時はなく、常に非常時での対応を余儀なくされるものなんでしょう。つまり、介護する側の人間性に全て委ねられるもの、それで介護者の対応が決まってしまうように思います。「最後まで美子の側で暮らしたい」と言われた言葉に先生の人間性が如実に表れているように私は思いました。その根底に流れているもの「どんな財産より、どんな豊かさより、こうして命が生きているという事実に勝るものがこの世にあるとは、絶対にゼッタイに思えない。(中略)生命至上主義、現実無視の世迷い言と馬鹿にされてもいい、命こそ何にもまして尊いと大声で叫びたい」。『モノディアロゴス』2002年12月24日「クリスマス・イブに」という言葉からわかります。島尾敏雄氏がここ十年で感銘を最も受けた本に『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』を上げられています。私もアマゾンで取り寄せました。先生ご自身で訳されているこの本の中に先生の魂が生きているように私は想像します。その中の一節にこうありました。「アカタミエント(畏敬の念)の神秘的賜物を受けるまでの長い道程において、イグナチオの意志の浄化に涙は重要な役割を果たしている」。

  2. アバター画像 阿部修義 のコメント:

    追伸                                                                           先生がここ十年で感銘を最も受けた本のところの「先生が」ではなく「島尾敏雄氏が」でした。私の単なる打ち間違えです。訂正させて頂きます。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    阿部修義様
     いつもいつも嬉しいコメントありがとうございます。さっそく訂正させていただきます。
    今日の南相馬は快晴、家内を昼寝させてから久しぶりに夜の森公園を歩いてきました。家内と歩かなくなってかなりになり、足が鈍ってました。これからは一人でも歩かなくては、介護もできなくなるので、なんとか頑張って歩くつもりです。お元気で!

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