子鳥に時おり餌を運んでくる親鳥のような人だから相棒なんて言えないのだが、でも一言で言えばやはり相棒、その西内君が今日から二週間ほど冷暖房完備の別荘に行った。別荘と言っても食事時間も消灯もきっちり決められている「別荘」だから、羨ましいよりかはご苦労さん、また元気に戻ってきてください、と言うしかないが、やっぱり寂しいし心許ない。
そのことが分かったのは彼が一昨日訪ねてきたときのこと。彼、そんなわけで時間つぶしに、ブログで紹介した異端叢書の中のジプシーの本があれば貸してくれ、と言う。おや、翻訳された叢書と思った? それ勘違いしているよ。でもジプシーに関する他の本なら1、2冊あったはずだから探してみる、とそのときは軽く請合ったが、さあて、彼の帰った後、一生懸命探したけれど見つからない。一冊は確か「クセジュ文庫」だったけど……
結局見つからず、その代わりにと、昨日三冊の本を見繕って彼のところに届けてきた。三冊ともダブっていたから、陣中見舞いとして進呈するためである。二冊はばっぱさんの書棚に手付かずにあった大江の健ちゃんの小説。そしてもう一冊が西澤龍生先生のスペイン史論『スペイン 原型と喪失』(彩流社、1991年)である。もちろんこれはばっぱさんとダブっていたわけではない、一冊は先生からいただいたもの、もう一冊は自分で購入していたもの。
西澤龍生先生は、もう御紹介したと思うが、『原発禍を生きる』の出版を論創社に持ちかけてくださった方だが、ここ数年のあいだ急速に親しくしていただいている大先輩なのだ。不適切な御紹介をすると申し訳ないが、先生はもともと下村寅太郎の流れを汲む歴史学者であって、私のようにスペイン語科の出身ではない。だからオルテガなどに接近なさったのはドイツ留学時だとうかがっている。
この辺の事情は他の人にはちょっと分かりにくいかも知れないが、簡単に言えば本格的な歴史学の研鑽を積まれたあとにスペイン思想やスペイン史に接近されたわけで、たとえば私のように先ず語学から入って、そのうちスペイン思想に興味を持ち始め、ほとんど独学でスペイン思想の森を彷徨ってきた者とは、その学問的骨格の太さが違う。
つまり先日来話題にしてきた堀田善衛氏についてと同じ様なことが先生についても言えるということである。誤解を恐れずに言うなら、初めからスペイン・プロパー(?)の畑でちまちまやってきた者には見えないような広い視点からの見方ができるということ。もっとはっきり言えば、スペイン史をも包みこむヨーロッパ史全般の知見や視覚から問題を捉えることができる強みである。
実は、白状すれば、この『スペイン 原型と喪失』もいままでしっかり読んでは来なかったのである。だから西内君、ジプシー問題をも含めたスペイン史の面白さに開眼するには、この本が格好の入り口だよ。だから西内君、僕も君に合わせて、こんどこそしっかり読むことにするよ。いま整理中の異端叢書、そして疲れたと言いながらやっぱり今日から続けて装丁作業に入った「アメリカ年代記」叢書も、西澤先生の本を読み進めるにあたって傍証として役立つわけだ。おっと、翻訳はまだされていないか。しかし私の紹介や要約の仕方次第では、誰かがよし翻訳してみようと思うかも…それは無理か? でももしかして?
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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飛躍した意見ですが『荘子』の「無用の用」という言葉が思い付きました。一見、全く関係のなさそうな事が、実は大きな影響を齎している。例えば、経済という事を考えてみると、一見関係のない自然環境とか個人の倫理観とかが根底に大きな影響力を持っているんじゃないでしょうか。
先生が言われる「学問的骨格の太さ」という言葉も「無用の用」の「用」を、いかに掘り下げて、広い視野で探求していけるかということのように私は思います。
先生のように学問を研究されてきた人の物の見方、考え方は非常に奥が深いと改めて感じました。