「ああ、ヘンすいヘンすい私のヘン人…」
『青い山脈』で高校生と街を歩いていた女学生を陥れるために書かれた贋ラブレター、頭の悪さを露呈して「変」と「恋」という字を間違えた恋文の文句である。確かにむかし聞いたことがあるし、これをめぐって笑ったこともある。はて、いつのことだろう? 石坂洋次郎の原作を読んだことも無いのだから、映画を観てきただれかが話題にしたのだろう。何度も映画化されているが、間違いなく最初の映画化、つまり1949年、今井正監督、原節子、池部良主演のやつだ。1949年といえば私が十歳、小学4年生ころ、帯広時代ということになる。でも誰がそれを観て話題にしたのだろう?
実は先日、その原節子の映画(「日本映画永遠の名作集」DVD 10枚組)と原作の文庫本(新潮文庫、1983年、78刷)をアマゾンから手にいれ、両方とも飛ばし観、飛ばし読みをしたのである。急に昔のことが懐かしくなったわけではないが、例の通り古本蘇生術の折、たぶん美子のものと思われる石坂作品の文庫本を数冊見つけ、中の『草を刈る娘』(新潮文庫、1951年、4刷)という短編集の表題作を何気なく読んでいくうち、なかなか面白いと思ったのがきっかけとなり、いっそ彼の話題作でも読んでみようかな、と思ったのだ。
映画が今井正のものであることを初めて知った。冒頭、杉葉子扮する女学生が池部良扮する高校生の店に卵を売りにくる場面から、なんだかタイムスリップして懐かしい世界に戻っていくような不思議な感覚を味わった。杉葉子にしろ池部良にしろ、女学生、高校生としては少し大人びていたが、昔はそうだったのかなと思いつつ観ていくと、他の女学生などはそれ相当に幼い顔立ちをしていたので、キャスティングに少し無理があったのかも知れない。しかしそんなつまらぬ詮索は無用なほど、映画は懐かしい日本、懐かしい日本人を映していく。
小津安二郎の映画を観るときにもそうだが、どうして昔の日本人はあんなに品があったのだろう、と不思議な想いにとらわれる。
実は石坂洋次郎の作品を読むのもその映画化を観るのも今回が初めてである。流行作家、大衆作家として、そしてあのやたら明るい主題歌からの連想か、一段と低く見ていたのかも知れない。しかし今回、飛ばし読みながら彼の作品をいくつか読んでみて、そして映画(期待した原節子より杉葉子が良かった)を観て感じたのは、彼の作品はまさに新生日本の幕開けを実におおらかに、そして清風の気をこめて謳い上げているということである。並木路子の「リンゴの唄」のあの明っかるーいメロディーと共に、終戦間もない日本人の心を励まし元気付けてくれたのである。
そう、戦後日本を明るく暖かく照らしていたのはすべて、とは言えないまでもそのほとんどが東北からの光だったのだ(石坂洋次郎と同じく津軽出身の太宰治は自殺してしまったけど)。それがどうしていつの間にか中央に収奪されるだけの可哀相な地方に成り下がってしまったのか。
とにかく、どこの局も大して代わり映えのしないくだらぬ放送を流していることに嫌気の差している世のお父さんお母さんは、子供たちのために古き良き映画をときどき一緒に観たり、それが照れくさいならそれとなく昔の名画をセットしておくなど、いろいろ智恵を絞ってはどうだろう。必ず面白がってくれるはずだし、そこから何かを感じ取ってくれるはずである。私の娘はたしか中学生ころまで、昔は現実世界も白黒の世界だったのだと真剣に思っていたらしい(まさか!)。もちろんそれはちと困るが、しかしCG(コンピューターグラフィックス)で一向に死ぬ様子のないヒーローたちの映画や、日本全体をロリコン状態にするような小※臭いBKA(でしたっけ?)の下手な歌を聞かせるより、昔の名画や名曲を観たり聞いたりさせた方がよっぽどまともな人間教育になりまっせ。
そんなことを考えて、今日も「アカデミー賞大全集」、「映画で楽しむ名作文学2」、えーいついでだとばかり「ミュージカル大全集」までアマゾンに注文してしまいました。自分自身はたぶん観る時間が無いでしょうが、子供たちや孫たちに観て欲しいと願って。それぞれDVD 10枚組で格安で買えるんですから、便利な時代になりました。いえいえアマゾンから宣伝費などもらってませんよ。