重い宿題

毎月第二土曜日が小高浮舟文化会館での文学講座の日だったから、最後に訪れたのはちょうど震災一ヶ月前の二月十一日。その日から数えて実に一年八ヶ月ぶりの小高だった。今年いちばんの寒さで、風が小止みなく吹く午後の薄日の中、懐かしの小高は、大津波そして原発事故で痛めつけられたままの無残な姿を晒していた。
 X新聞が島尾敏雄の記事を作るので協力してくれないか、と先日市役所の寺田さんから連絡が入っていた。記者とカメラマンと同行して、埴谷・島尾記念文学資料館などに行って欲しいとの依頼である。他ならぬ敏雄さんのことだし、それでなくとも今小高がどんな状態なのか知りたかったからもちろん喜んで引き受けた。美子を頴美に頼んでの一人だけの外出も久しぶりである。寺田さんの運転する車に、記者氏と私が、そしてその後をカメラマン氏の車が続いた。旧街道ではすれ違う車もなく小高区に入る。警戒区域が解除されてだいぶ日が経つのに、まだ上下水道などのインフラが回復していないとかで、浮舟文化会館の周囲にも人影がない。しかし作業車などのためらしく、すぐ側のガソリンスタンドは開いていた。人通りがないのに、信号機だけは時間を置いて空しく点燈を繰り返す光景も異様である。
 浮舟文化会館の正面玄関は封鎖されているので、裏口から入った。大地震直後の状態がそのまま残っており、展示室の床には敷布団が一枚敷きっぱなしになっていて、その側に中の飲み物が乾ききった状態の紙コップが置かれていた。そこが一時避難所に使われたらしい。寺田さんの話だと、浮舟がその機能を回復する見通しは今のところまったく立っておらず、いずれここの資料は、中央図書館の方に移される予定という。
 浮舟の後、無人の小高駅を回って、村上の浜に向かう。津波の後、一時ここの住民たちは周囲を海水で囲まれて孤立し、自衛隊のヘリコプターで救出されたという。寺田さんの借家も流されてしまったそうな。独り者だったから良かったようなものの、もしも家族持ちだったら…いや、そんな風に考えるなんて酷な言い方だが、でもそうとでも考えないと無念さが募るであろう。
 島尾敏雄の名作「いなかぶり」の中で、敏雄少年とばっぱさんが歩いた「はたて」は予想通り浸食されて既になく、太平洋の荒波が崖まで直接押し寄せていた。同行したカメラマン氏にここでも何シーンか写真を撮られたが、遠く雲の合間から暗い海上に射す光の帯を見ている姿なんぞ、さてどんな顔に写っていただろう。新聞には別の写真が使われるであろうが、そんな写真なら自分でも出来上がりを見てみたい。
 そのあとテトラポットが強い波を受けて並ぶだけの元海水浴場を見たが、側のテント場に海水浴客が戻る日なんて来るのだろうか、と考えて暗澹たる気持ちになった。
 最後は島尾敏雄の幼少年時代、休みごとに帰省した井上家本家。私の家族も北海道から移住して原町に落ち着くまでの半年間、ここの隠居所にお世話になったが、いま主たちは疎開先で不便な生活を続けている。無人の家屋敷の荒廃は急速に進むと聞くが、庭のざくろの木や、周囲の柿の木は今年も健気に実を付けていた。海岸線の津波被害もさることながら、海から4、5キロ入ったこのあたりも原発事故の被害をまともに被っていることに、無念さと怒りが改めてこみ上げてきた。
 巡礼行の合間合間に、島尾敏雄やその文学についてのインタビューを受けたわけだが、島尾敏雄さんや埴谷雄高さんがもし今日まで生きていたとしたら、今回の災厄をどう受け止め、どう感じたろう、と考えた。もちろんすべて推測の域を出ないわけだが、しかし彼らの思いを考えめぐらすことは、彼らの文学に新しい意味を与えるはずだ。なぜなら優れた文学作品は、後世の読者たちによって新しい意味を得ながら生き続けるはずだからだ。そしてこの偉大な先達たちのためにも、この南相馬の地に必ず昔の姿を取り戻さずにはおかぬ、との思いを強くしてこの半日の巡礼行を終えた。重い宿題を背負うことになった小高再訪の午後だった。

※追記 浜の側の民家でボランティアらしき二十人ほどの人たちが泥の掻き出しをしてしているのが見えた。上出さんや織田さんもああやって奉仕活動をしてこられたんだろうと思い、改めて心からの感謝の気持ちが湧いてきた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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重い宿題 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     2003年の『モノディアロゴス』の中で浮舟文化会館が落成して3年とありましたが今回の震災と原発事故による今の現況を知り、私も一日も早く開館出来れば良いと願っています。

     先生が「島尾敏雄さんや埴谷雄高さんがもし今日まで生きていたとしたら、今回の災危をどう受け止め、どう感じたろう、と考えた」と言われた言葉に先生とお二人の作家との並々ならぬ太い絆を感じます。

     復興には確かに会館の再開という物質面も大切ですが、先生が強く言われているように人間の心のケア、つまり精神的な部分がより大切だと思います。文学、音楽などの芸術作品は正に人間の心の糧であり、生きていく原動力となる力を持っています。ふと、島尾敏雄氏が愛読されていた『ロヨラのイグナチオ』をもう一度読み返そうと思いました。

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