二つの『吾が家史』(一)

今朝書棚を整理していたら、青い大きな茶封筒(チャブウトウという言葉は辞書にはなさそうだ、はて?)に入った古い書類が二つ見つかった。書類といっても、そのうちの一つは、何重にも小さく折りたたまれてはいるが、広げると畳一枚くらいの大きな紙の裏に書かれた家系図である。表は設計図。「日本砂鉄鉱業株式會社建物及機械配置図 縮尺四百分の一」と書かれている。どうしてそんな設計図があったのか?いやいやそんなことより当面の問題はその家系図である。
 家系図といっても、ボールペンで走り書きされただけの、いわば下書きである。作者はだれか。それは同じ袋に入っていた「昭和二十二年記 吾が家史」と墨で書かれた小冊子から判明する。墨で書かれているであろうと推測しただけで、実際は紫色のコピーである。つまり表の設計図と同じ焼き方(?)の、B4の紙を袋綴じにした30ページほどの手書きの本である。冒頭に「昭和弐拾弐年 幾太郎記 六十八歳」と書かれているように、私の祖父安藤幾太郎が作者である。
 ところがこれは安藤家ではなく井上家の家史である。つまり「吾が家」というのは幾太郎にとって井上家でもあったわけだ。簡単に言えば、彼は井上家から出て安藤家の婿養子になったからである。これまた一家の恥をさらすことになるが、この幾太郎は現在よりはるかにリスクの大きかった株で失敗して、婿入り先の安藤家の家産を一切合財失って北海道開拓団に加わった経歴を持つ。だから、安藤家や祖母にとっては許しがたい失策を犯した婿であった。
 それゆえ彼が実家の家系図や家史を書いただけだったら、安藤家に申し訳が立たないところだが、実は彼は安藤家の「吾が家史」も書いているのだ。しかし彼が両家の歴史を記録しようと思い立った理由は、井上家に対する懐旧の念でも、また安藤家に対する恩返しの意味でもなかった。要するにこの幾太郎はもともと記録することが好きだったからと思われる。書かれたのが戦後まもない時期であったのは、大戦という大きな歴史的変化を体験して、国とか家そして人間が変化と消滅の危機にさらされてることに思いを馳せて、なんとか記録せねば、と思ったからであろう。そうした性癖(?)は彼の甥である作家・島尾敏雄にしっかり受け継がれていく。
 ところでこの二つの文献がなぜ書棚にあったのか。最近とみに物覚えが劣化した記憶の襞(ひだ)をゆっくり探ってみて、それが数年前、浮舟文化会館の「島尾敏雄を読む会」に参加していた井上家の一人、つまり私の又従妹のTさんから渡されたものであることを思い出した。彼女にしてみれば、茶箪笥(この言葉は辞書にある)の隅に埋もれさせておくより、幾太郎や敏雄と同じ性癖の持ち主らしい私にあずけた方が、一家の歴史にとって得策と思ったに違いない。ビンゴ!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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