サランヘ

中国語でアイ・ラブ・ユウーがウォ・アイ・ニーであることを最近やっと覚えた。孫娘が「愛」という名前なのに恥ずかしいことだ。嫁には、この子には赤ちゃんのときから中国語を教えて欲しいなどと言いながら、自分はといえば中国語の勉強はまったく進んでいないのである。『必ず話せる中国語入門』などの参考書や、数種類の中国語の辞書を机の周りに置いてはいるが、もう何ヶ月も手にとってさえいない。正直に言えば、あきらめてしまったのだ。
 この六月には、旧熱河省(現在は河北省)の灤平を訪ねようと計画している。本当はせめて片言でもいいから話せるくらいにしておくべきなのだが、どうしてもその気が起きないのである。今回は先に幼い孫をつれて里帰りする嫁に通訳は頼めないが、幸いなことに六月まで北京大で教えている友人のオエストさんに通訳を頼むことになっている。そしてこの次行く時は(さてそんな「この次」があるのだろうか)孫娘に通訳をしてもらおう、などと完全に人任せの態勢になっていて、これを変えるのはとても難しいのである。
 前置きが長くなってしまったが、実は数日前、ウォ・アイ・ニーが韓国語ではサランヘであることを、これまた初めて知った。韓流ドラマのファンだったらとっくに知っている言葉だろうが、今まで知ろうともしなかった(その必要がなかったので)。サランヘ、音としてもきれいなこの言葉を、今日の午後ネット古本屋から届いた一冊の本の表題で覚えたのだ。宋秋月の『サランヘ 愛してます』(影書房、1987年)である。
 この本のことは…とさらに話は遡るが、ノーマ・フィールドの『天皇の逝く国で』(大島かおり訳、みすず書房、1994年)で知った。その本の冒頭に宋秋月の「哀のパラドックス」という詩がまるごと引用されていたのである。金芝河の「アジュッカリ神風」のときと同じような衝撃を覚えた。金芝河と違って、宋秋月が在日であることによって、その衝撃波はさらに強かった。前者は三島由紀夫の自刃に抗議しての詩だったが、後者は昭和天皇の逝去に際してのものである。


     (前略)
    日鮮同祖論のオオモトのオオカミの
    血が 君が血が流れている故に
    赤子とされ連行されてきた我が父は
    筑豊炭田坑夫であった我が父は
    忍苦鍛錬して立派な国民になりますと
    なる なれ ならねばの皇国臣民誓詞を
    そらんじたという我が父は列島の
    土くれの成分として霧散してしまい
    君が世の君が国土の滋養となった。
     〈後略〉

 

 詩人は1944年、佐賀県に生まれた在日二世、三児の母という。サランヘ…これは故国や在日だけに向けた言葉ではなさそうだ。私たち日本人にも向けられた言葉でもあることは上にその一部を引用した詩からも明らかである。急いでネット古本屋で探して、第二詩集らしい『猪飼野・女・愛・うた-―宋秋月詩集』を発注した。当分、彼女の激しく強い愛の言葉に打たれてみたくなったからだ。

※第二詩集は売却済みとのメールが届いた。在庫は頻繁にチェックしろっつーの。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク