雑読雑記

いつの間にか松の内も過ぎてしまった。その間何をするでもなくのんびり日を送ってきた。一昨日は珍しく遠来の雑誌記者の取材を受けたり、昨日は頴美と愛を連れて鹿島の仮設老人ホームによっちゃんを訪ねたりしたが、それ以外、さて何をして過ごしたのだろう。例の装丁の仕事(?)や、私家本の印刷・製本は細々と続けてはいた。それ以外は雑多な本の飛ばし読み、摘まみ読み、スポット読みをしていたろうか。宮本武蔵など例のいわゆる国民文学にはとっくに飽きがきて(早っ!)、2冊ずつ布表紙で装丁した『武蔵』と『小次郎』合計5巻は、昨日、本さえあれば他は要らぬ、と無類の本好きのよっちゃんへの格好の贈り物にした。
 このところジャンルから言えば幻想小説もしくは空想小説に属する本を読んでいた。震災後、読書力というのか持続力というのか極端に無くなっていたが、それら雑多な小説を読んでいくうち、気がついてみると少しは集中して読めるようになってきたのは不幸中の幸い(?)だが、それにしてもここに来てなぜ空想小説を?
 きっかけは、あるときふと、むかし書いた文章が頭に浮かび、そこで取り上げた本を読み直してみようと思ったことである。むかしといっても大昔、実に半世紀以上も前、大学四年生の時に書いた文章である。四年生の四月からイエズス会の志願者になったのを期に、それまで二年ちょっと住んでいた初台の学生寮を出て大学構内の学生寮に移ったが、その古巣の学生寮が出すことになった文集に寄稿した短い文章である。まずその文章をコピーしてみよう。


  閑暇について

 すっかり秋である。しかしこれは私の実感ではない。東京、それも私のように毎日大学の構内の非情なコンクリートの中で生活している者には、どだい季節の移り変わりを肌で感ずる様な風流さには恵まれていない。
 一週間程前、寮の友人達と丹沢に一泊予定で出かけ、山の中の一本道を星をたよりに歩いているうちに、果して現代の人は真の闇、真の静けさを知っているのだろうかと不思議になりだした。東京などは闇といっても、人工的な着色が多かれ少なかれ必らず加わっているし、静寂といっても、機械文明の絶えまない呼吸音の合い間の、ひきつった窒息状態に他ならない。ルソーの云う「自然に帰れ」というお題目は、別な意味で現代に対する最も適切な警告であろう
 今年の夏、暇にまかせてルーマニアの作家、ゲオルギウの『二十五時』を読んだ。機械文明に支配されつつある現代の恐怖を描いたものである。二十五時とは―主人公トライアンの言葉を借りよう―あらゆる救済の試みが徒労になる時間だ。救世主の降臨を以ってしても、何ものも解決されない。それは最後の時間ではなくて、最後の時問の一時間後なのだ。そしてこれが現代の正確な時間なのだ。何故なら、技術万能主義化された社会は精神を創造し得ず、従って人間にあらざる怪物に身を渡したからである。
 私自身は、この主人公のペシミズムにはついていけないが、そうかと云って、この極端なペシミズムが避け得られぬ観点が存在することも認めなければならないだろう。
 さて人は何故、この技術文明の巨大なべルトの上を、あらゆる思考活動を停止して送り出される運命になったのであろうか。いや、もっと正確に云って、少くともそのような恐怖をいだくようになったのだろうか。
……

(『寮友』創刊号 レデンプトール学生寮同窓会
                昭和三十六年十一月三十日発行)

 実はこの後、現代ドイツの哲学者J・ピーパーの『余暇―文化の基礎―』という本の話に移り、機械化されつつある現代人にとって「閑暇」が一つの救いとなるのでは、との結論に持っていくのであるが、いささか強引な若書きの文章にこれ以上お付き合いしてもらうつもりはない。ただ文中、『二十五時』が描くペシミズムにはついていけない、などといかにも若者らしい感想を述べてはいるが、しかし半世紀後の私としては、そのペシミズムはむしろ生ぬるいとさえ思えるほどのペシミズム、ひょっとすると絶望に近い心境に立たされている、と言ってもいいだろう。
 これまで再三言ってきたように、震災後とりわけ強く感じるようになったのは、現代日本がどこか宙に浮いたもの、それでいて例の特定秘密法案可決に象徴されるように、ますます国家権力による管理体制が強化される時代、ゲオルギウの時代とはまた違った、しかし本質的には同様の危険をはらんだ時代になってきた、との思いがあるからである。
 ところが『二十五時』は既に手元にはないのでアマゾンから取り寄せようとしてカタログを探しているとき、同じような問題を扱っているいくつか面白そうな本が視界に入ってきたのだ。たとえばジョ-ジ・オーウェルの近未来小説『一九八四年』(といっても実世界はとっくにその1984年を通り越してしまったのではあるが)や『動物農場』など一度はぜひ読んでみたいと思っていた小説やエッセイ群、さらにはいくつかそれまで聞いたこともない名前の作家たちの新しい小説も読みたくなってアマゾンから取り寄せはじめたのである(もちろんほとんどが例の奇跡的廉価で)。
 たとえばフェリペ・アルファウの『ロコス亭』、イスマイル・カダレの『夢宮殿』、アンドルー・クルミーの『ミスター・ミー』、ギルバート・アデアの『閉じた本』、そして今日の午後、新たにジャン=ジャック・ヒシュテルの『私家版』が届いた。これらはいずれも創元社推理文庫のものだが、それにしてもこの出版界不況の折、よくも地道に良書を出してきたものだ、と脱帽である。翻訳の方も青木純子など実に手練(てだれ)の訳家が揃っている。
 先に言ったように、これらを数冊同時に読み始めている。混乱しないか、ですって? そりゃ混乱しまっせ。でもこの何ともぶよぶよと掴まえ所のない現代、それを描いている幻想・空想・近未来小説を読むには、こういう読み方もあってもいいのでは? だいいち頭の体操になるし、描かれた作品世界同士、一見何の関係もなさそうなのに、思わぬところに通路が開かれたりする。(でもやっぱりこの読み方は無理かも…)
 ともあれここまで読まれてきた方に、本の内容についてはまったく手がかりを与えてこなかったので、最後にそれぞれの本の内容紹介を順に並べてみましょう。

『ロコス亭』
 誰にも存在を認めてもらえない哀れな男、葬儀があればどこへでも飛んでいく謎の女、指紋理論に固執するあまり自ら逮捕されてしまう男。“ロコス亭”に集まる奇人たちが物語と物語の間を、そしてその内と外を自在に行き来し、読者を虚構と現実のはざまに誘う、知的で独創的で、とてつもなく面白い小説集。

『夢宮殿』
 名門出の青年が職を得たのは〈夢宮殿〉。迷宮のような建物の中には、選別室、解釈室、筆生室、監禁室などが扉を閉ざして並んでいた。ノーベル文学賞候補作家による幻想と寓意に満ちた傑作。

『ミスター・ミー』
 浄書で糊口をしのぐ十八世紀のふたりの男、フェランとミナールと謎めいた原稿の物語、ルソー専門のフランス文学教授が教え子への恋情を綴った手記、老人ミスター・ミーのインターネット奮闘記、この三つの物語のそれぞれがロジエの『百科全書』を軸に縒り合わされ、結ばれ、エッシャー的円環がそこに生まれる。

 オランダの版画家。位相幾何学の原理をヒントに、現実にはありえない錯視的空間を精密に描いた。

『閉じた本』
 事故で眼球を失った大作家が、自伝執筆のため口述筆記の助手を雇い入れる。執筆は順調に進むが、何かがおかしい……。彼は何者なのか? 会話と独白体のみで綴られた異色作。

『私家版』
 友人ニコラの新作が彼を超一流作家に押し上げることを、私は読み始めてすぐに確信した。テーマは感動的、文体は力強く活力がみなぎっている。しかしそこに描かれたある事実が私を憎悪の奔流に溺れさせた。この小説の成功を復讐の手段にするのだ。本が凶器となる殺人。仏推理小説大賞・「エル」読者賞・ジョワンヴィル市シネレクト賞受賞。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたコメントを転載する(2021年2月20日記)。

先生がここに挙げられた諸作のうち、わたしが読んだのはわずかに二冊のみです。すなわちピーパーの『余暇と祝祭』と『私家版』です。吉川英治の『宮本武蔵』はいちど郷里の実家に送ってあったのですが、また気になって仕事場に戻しましたからいわば座右にあるとも言えます。『私家版』は映画化されており、テレンス・スタンプ演じるクールな主人公の悲哀を湛えた風貌に、原作を越える魅力が加わって逸品となっています。先生の簡にして要を得たコメントにつられ、これから他の著も注文しておくとしましょう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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雑読雑記 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     『宗教と文学』の最初のページに「閑暇について」の小論があり、その中で先生がこう言われています。

     「閑暇とは、しかし無為怠惰と同一ではない。しかし労働が極度に緊張した活動力、犠牲的精神、社会組織の中への不断の没頭を必要とするのに反し、閑暇は、非緊張性、労苦のなさ、社会的機能の超越をその特徴とする。つまり閑暇する態度とは、自らを開放して委ねる人の態度であり、職能人をして、限定された労働機能という断片的な環境のうちに没してしまわないで、世界全体を一つの直観で捉え、そこにおいて自己を、その存在の全体に位置づける態度である。こうすることによって、我々は労働の世界を超えて、超人的な我々の生命を与える存在の力へと到達することが出来るというのである」

     半世紀前、先生が二十代前半に現代社会の人間本来のあり方として問題提起された閑暇の必要性について考えてみました。現代社会のベクトルの向きは、人間の欲望を満たすために合理的に突き進んで来たわけですが、それは、ラットレースのように永久に満たされることがなく、そのために様々な弊害(社会の閉塞感、原発事故)を引き起こして来ました。しかし、本来、人間そのものが不完全な存在で、非合理的なものと考えると、ベクトルの向きは欲望ではなく、自己の内面に向かって追求されなければ、一歩踏み込んで言えば、群衆に伍する、ものに混ずることなく、自己の絶対に徹することが、あらゆる相対に対応できるように私は思います。それは人間の直観力を養うことにも繋がるように感じます。車で例えれば、ハンドルの遊びの部分のように、人間が生きることを非合理的なものと捉え、ベクトルの向きを自己の絶対に徹する方向に変えるには、閑暇の必要性は重要だと私は思いました。

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