三周年寸感

緊急のお知らせ(14日午後)
 昨晩の「私にとっての3.11」のアンコール放送、震度5の地震のニュースでまた飛んでしまいました。編成で代替措置を行いました。19日の鄭周河さんの番組はそのままです。
 17(月)深夜・18日(火)午前3:05-4:05 徐京植 フクシマを歩いて
 度重なる変更で、誠に心苦しいのですが、なにとぞご了承下さい。(NHK鎌倉英也ディレクターより)
今日(12日昼)ぜひ読んでいただきたい大事な追記2を加えました。よろしく。

今朝方、例によって明っかるーい声で帯広の叔父が電話してきた。三周年関連のテレビ番組について知らせてきたのだ。でも応答しているうち、叔父さんには悪いが、いつの間にかいわば八つ当たり的に怒りをぶちまけてしまった。つまり「痛く同情してます」的な報道の姿勢一般に対しての遣る方ない憤懣を吐き出したのだ。
 いまいちばん嫌いな言葉は「寄り添います」。それでいてアベノミクスとやらの餌にとろんとなって、原発再稼動のみならず輸出まで許しているアホ国民になど寄り添ってなんぞもらいたくない。本当に寄り添いたいというなら、きっぱり原発ノーを鮮明にして、一緒に手をつないで反原発の闘いに参加して欲しい。いや参加ではなく文字通り共闘してほしい。
 しかしこの思わぬ瞬間湯沸かし器の沸騰には、いわば誘い水のような或る出来事が関連していた、ようだ。インターネット、しかもこのようなブログをやっている以上覚悟しなければならぬ不愉快な出来事である。つまりごくごく簡単な挨拶も無しにいきなり自分の用件を切り出してきた相手を一言たしなめたばかりに、罵倒の言葉を浴びせられるということが昨夜あったばかりなのだ。
 そういえば以前も一度ここでそんなことがあったが、しかしそのときは相手方の一人の女性が心からの遺憾の意を伝えてきたので、かえってこちらの方が恐縮して「感謝」したことがあった。でももう一方の男性はいっさい返答しないままネットの闇に消えて行った。
 今回は消えて行くどころではなく、いきなり「倍返し」をしてきたのだ。冗談のつもりで鶴田浩二の歌詞の文句の「仁義」を持ち出したら、あんたヤクザかといった調子で逆切れされたので、こりゃ話にならん、と話を打ち切ってすべての交信記録を「ごみ箱」に捨てて忘れることにした。最後のメールを「お元気で」という言葉で締めくくったが、さてその皮肉は通じたかどうか。
 ネットの交信でそんな挨拶は不要と考えているとしたら、それは違うでしょう、と言いたい。顔や声が直接見えない聞こえないネットだからこそ、むしろ接近の仕方に注意と礼節が必要であろう。確かオルテガの『個人と社会』の中に、アフリカの或る種族は互いの挨拶を肉眼で相手を識別できる数キロ先から始めるとあったが、ネット交信、とりわけ一切の予備知識無しの相手に対してはそれなりに神経を使わなければなるまい。チャンネル2だかの交信のおぞましさは、そういう一切の礼節を抜きにしたナマの毒ドクシイ言葉が飛び交っていることから来る。今回の相手は匿名でなかったことが唯一の「救い」である。本当に「お元気で」いてほしい。
 「寸感」と題したからには、この辺で止めたいが、最後に一つ予告編を。
 数日前、マドリードのアンヘラさんから文字通り「玉手箱」が届いた。浦島太郎は開けてびっくり一瞬のうちに白髪の老人になってしまったが、私の方は元もと白髪の老人なので、逆に一瞬のうちに若返ったようなびっくり玉手箱となった。中身はいつか皆さんに恨まれない程度に御披露したいが、今日はそのうちの一つ。つまり昨年高齢で亡くなられた経済学者で小説家でもあったホセ・ルイス・サンペドロさんの『書くことは生きること “Escribir es vivir”』という本が未亡人オルガ・ルカスさんの肉筆献辞入りで入っていたのだ。そのとき直ぐには気づかなかったのだが、彼が20年前に書いた “La sonrisa etrusca”がスペインのみならずヨーロッパ諸国で何百万冊も売れた大ベストセラー作家であり、なんとわが国でも『エトルリアの微笑み』としてNHK出版から渡辺マキ訳で出ていたのだ。さっそくアマゾンから昨日取り寄せた。いま読んでいる途中だが、その中扉の梗概の一部を紹介する。なぜ私がこの本に惹きつけられているかお分かりになるであろう。

「老人には、残された命が長くないことがわかっていた。彼は、生まれ故郷のすべてのものに別れをつげ、遠く息子夫婦の住むミラノへ旅立った。…旅の途中に立ち寄ったローマの博物館で、エトルリアの遺物【夫婦の棺】が、老人の心をとらえた。墓だというのに、そこに刻まれた夫婦は幸せそうに微笑んでいる。笑いながら死ねる人生とはどんなものだ? その微笑みは老人の心から離れない。」

 あとは次回のお楽しみ。


追記1 「嫌いな言葉」がもう一つありました。先日拙宅で話し合った「東京新聞」の■記者もまったく同意見なので、あゝ女性から見てもそうなんだ、と嬉しくなりました。「オ・モ・テ・ナ・シ」です。おもてなしの心なんぞ、自分から言うもんじゃないぞなもし。気色悪ー!まるで廓(くるわ)言葉みたい。カマトト振りもいい加減にせいー、といったところかな。ところでカマトトの語源知っちょる? 庶民は新鮮な魚など普段は食べられず、いつもカマボコばっか食っちょるのに、わざと知らない振りして遊女が聞いたとさ、これトト(魚を指す幼児語)かいな?

★★追記2
 なぜ「寄り添う」という言葉につい嫌悪感を覚えるか、実は真面目に考えたことがなかった。せっかくお前たちのために寄り添おうと言っているのにそうムキになりなさんな、と言われそう。で、はっと気がついた。そうだ、そう言う人はこちらを被害者として、救いを必要としている弱者として上から目線で見ている、それがヤリキレナイのだ、と。
 事故直後も、遠くから私たち家族を心配してこちらに避難してきなさい、とメールをよこした人の言葉を、いまも思い出し、あの時感じたいやーな気持ちを再び味わった。

「とにかく、一刻も早く避難して下さい。意地を張って、福島に留まり、あたかも【戦場特派員】のような実況中継を、誰も読みたくありません。…甘えて下さい。甘えることは恥ではありません。」

 対照的に今でも思い出すたびに勇気をもらい元気が出る言葉がある。事故直後から何度も南相馬を訪れて写真を撮り、昨年の第二周年目に合わせて南相馬中央図書館で『奪われた野にも春は来るか』と題する写真展をしてくださった韓国の写真家チョン・ジュハ(鄭周河)さんの言葉である。いまそれを確認するため上の「取材映像」の中の彼の映像と声を追った。特に最後の彼の発言を聞いているうち、涙が止まらなくなった。彼の目線は被災者の背後にある。つまり彼は出来るだけ被災者の目線で、被災者の内部から(そんなことはかなわないことだと知りながらも)、ものを見ようとしている。彼にとって被災地は、被災者は、単なる素材ではないのだ! 彼は言う、被災地を撮ることによって自分自身が変わらなければならない、私は死ぬまで機会あるごとに南相馬を訪れ、その覚悟を確認しなければならない、と。
 こんなことを言ってくれる日本人がどこにいる! みんな被写体や素材を求めてやって来るだけじゃないか! あゝチョンさんのメッセージをでっかい拡声器に乗せて日本中に、いや世界中に流したい! 私よりはるかに若いこの韓国人に対して頭を深く垂れて敬意を表したい。でも恥ずかしがって嫌がるだろうな。彼、今年の野馬追いにまた来てくれるそうだ。今から再会を楽しみにしている。
 どうか皆さん、番組終わり近くの彼のメッセージをもう一度見て聞いてください。そして彼の朝鮮式の、あの大地に両膝をついてする美しい祈りの姿を見てください。

※先日お知らせした番組の放送時間変更の連絡が入りました。以下をご覧ください。

 本日、NHKの番組編成から連絡がありました。
<変更後の放送予定>
13(木)深夜・14日(金)午前2:35-3:35 徐京植 フクシマを歩いて
18(火)深夜・19日(水)午前2:40-3:40 鄭周河 奪われた野にも春は来るか

 すでに、録画予約されている皆さんもいらっしゃると思いますが、よくわかりません
が、変更前にした予約は機械が自動的に変更後の放送日時に録画するようにセットさ
れるそうです。が、よろしければ再度録画設定していただくか、あるいはご確認ください。
 本当にすみません。何卒よろしくお願いします。

      鎌倉英也(Hideya Kamakura)NHK専任ディレクター
      制作局文化福祉番組部

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

三周年寸感 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     鄭氏の美しい祈りの映像を改めて見ていて『モノディアロゴス』の中で先生が言われた言葉を思い出しました。

     「死者のために祈る、いや死者に向かって祈るとは、私たちが生者とだけでなく実は常に死者たちと共に在ることをしっかりと認識することなのだ。(2002年8月9日
    八月は死者の月)」

     3.11から三年という年月が経過しましたが、日本は原発再稼働、アベノミクス、オリンピックとまるで何もなかったかのように、安倍総理の言葉を借りれば、一級国家になりたいがために突き進んでいます。「寄り添う」とか「おもてなし」は、言葉ではなく行為に意味があり軽々しく言える言葉ではありません。それは「祈る」という行為といっしょで、先生が言われるように、他者と共に在ることを認識するということだと私は思います。鄭氏が「死ぬまで機会あるごとに南相馬を訪れ、その覚悟を確認しなければならない」と言われたのは、そういう意味があると私は感じます。そして、鄭氏の美しい祈りの映像に先生と同じように「魂の重心」を低く保たれた鄭氏の生き方を私は感じています。

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