今回の記録にはばっぱさんの少女時代の思い出が語られています。特に巫女にまつわるエピソードには泣けてきます。
生い立ちの記録 その二 【一冊のノートから】
父が、晩年近くなってから、私のために一冊のノートを残してくれました。おもうに古い日記の中から転記したもののようでした。
父は筆まめな人で、日記は簡略文で必ず書きつけておりました。物ごころついた頃からの記憶には、父の座右にはいつも当用日記がおいてあり、その年によって、大型小型さまざまでした。暮れになると、新しい日記帳を買って来て、満足そうに机の上に置いていた父の姿が目に浮かんできます。そして、ついでに、いや心がけて、私にはフロクのついた少女雑誌をその時々で、「少女世界」、「少女倶楽部」、「少女の友」などを、弟には「譚海」という少し小型で分厚いもの、そのほか「少年世界」、「少年倶楽部」であったが、私は弟の本には余り手をつけませんでしたが、弟達はむさぼるようにして読んでいましだ。
あの新しい雑誌のにほいには何ともいえない満足感をそそるものがありました。そして付録には大てい「双六」が入っており、お正月にはよくそれであそんだものでした。
しんけんな眼つきで、サイコロを転がし、上り、下りにこぶしを握りしめて、一喜一憂の表情を正直に表わした少年弟達の姿は、今はもう、美しいまぼろしとなりましに。
さて、そのノートを父が死んでから、読んでみました。生前にはさして興味もわかず、うすいノートに、父特有のペン字でギッシリ書いてあるので、読む気もしなかったのに、最近ようやく開いてみました。
それには、次のようなことが書いてありました。大正二年
いちにち東南の風吹きあれ 暴風雨となる
川原田の堤防切れ 汽車不通
千代、胃腸病みて 衰弱はなはだし
島医者にかかりをれどはかどらず
飯崎の木幡医に行く
ひきつけおこし、大田和の祖父母(母方)も一夜とまり
夜通し ひやしこ [ほ] り八月二十八日
仁(母)千代をつれて浪江の大井医にゆく
夜ねむれず、時々起きて 泣き 母の胸にのりかかりてねるー。
……後 略……
其の後、一向に病状よくならず、数え年三才の時、大田和の祖父母につれられて、岩代国熱海温泉に一週間滞在、ふきでものは全治したとあるが、それまでに、父母、双方の祖父母、叔母、いとこまで、私のため看病の限りをつくしたようすが細々と記録されています。
私にとって幼時体験記録の最初のものが、その岩代熱海の温泉での部分的記憶であり、夢なのか、また語りきかせからの想像なのかとも不審がったこともありましたが、それはやはり、最初のもっとも古い記憶なのです。母方の祖父母に連れられて行ったことは、父の日記で明らかなのですが、往復途中のようすは皆目わからない。
広い、広い、湯ぶねに、祖母とほかの客一人と浮かんでいて、一段高い処にまた小さな湯槽があり、祖父と男の客がいたようで、湯気でけむっていても、見通しがよいので、声をかけあっていたふうでした。写真のネガをのぞくような固定した映像でキッチリと残っています。
そして帰りがけは、岩沼廻りでそこに一泊したことは、父の記録通りなのですが、私が妙に覚えているのは、岩沼で買って貰った玩具でした。細かに彩色されに可愛らしい乳母車と、おんぶしてあそべる赤い木綿の縫いぐるみの人形(おさるこ)だったようです 。
七月生れの私が満三才だったと書いてあるので、九月半ば頃だったと思われます。
父自身も生来体は丈夫でなかったので、心がけて健康法に注意していたようで、中年以後は医者にかからないのが自慢の一つでした。
八十八才の高齢で亡くなりましたが、祖母に似てよく足まめに歩く人でしに。冷水摩擦の励行は他人にもすすめ、五十才近くまでは、厳寒の折も氷を割って、毎朝川端で水をかぶっていましに。色白の身体から、湯気が立っているさまを、こどもごころにふしぎだと思ってみていましだ。やがて冷水摩擦から乾布まさつとなり、弟や、私まで、毎朝ゴシゴシやられました。
それでも私はよく風邪を引き、冬になると、小学校に入ってからは、いつも一ヶ月以上欠席していました。一年生から四年生まで、三月の修業式には出席したことがなかったのです。必ず肺炎から急性肺炎を併発し、父母の献身的な看病から、毎年生きかえっていたようなもので、五年生の時はじめて、修業式に出ることができました。ですから、修了証書は、賞状と賞品(教科書三冊)といっしょに、いつもとどけて貰っていました。
八畳の座敷を完全に目張りをして、火鉢にかけたヤカンからは、よる昼湯気が立ち通し。その頃父は、町の店を引き揚げ、母の実家にもどって酒の小売業をやっていたので、酒は惜し気なく使って、湿布を三時間置き位に取りかえて貰ったものです。
洗面器で、熱いむしタオルを、フーフー息で吹きながら、手のひらで、皮ふが特に弱かったので、年頃になってから、叔母が、自分の化粧品のあれこれを、私のために折角くれるのでしたが、私の皮ふは化粧のりが悪いので、そのうちあきらめられたようでした。
化粧については、こんな思い出があります。
小学校一年生になったばかりの春四月、小高神社の祭りがあり、村上浜まで遷宮のみこしのお供をして、巫女になって、白い水干に朱の袴姿で歩かせられたことがありましだ。
父は、私のみこ姿を見たくて、浜までついて来たわけでしょう。砂浜で神主が祝詞をあげてる最中、ふと正面を見ると、見物客の中にまじって、父が私の方をじっと見ていたようでしたが、いかにもがっかりしたような風で、間もなく立ち去りました。
家に帰ってから、父は「千代の化粧した顔はめぐさくて、見られたもんでなかった」と申されたことは、自分は大してこまったことでもないのにと、聞き流してしまったのですが、さすがに父もあきれた風でした。
小学校を出てから、いつの頃か、娘の不器量をなぐさめるかのように、「女は器量じゃないよ……一番大切なものは貞操だよ……」とぽつりと云ってくれたことは、印象深いことばでした。
トルストイの作品にも出てくるが、思春期の頃、鏡をつくづく見ながら、自分の顔に見切りをつけるくだりがあるが、私も、ある昼下り誰も居なくなった縁側で、こっそり鏡を見ながら、同じ心境で「女に生まれながら、どうしてもっと美人に生れなかったのだろうか」と思い、それ以来、自分の容貌には絶対に自信を持たないことに、心がけたようです。むしろあきらめの心境で、気が楽になり、化粧品には無駄金は一切使わず、みな本代の方に惜しみなくまわすことになりました。
これも、父のはげましとも、なぐさめともつかぬことば一つが、私の一生を支えてくれたようなものです。
「であい」、第8号、一九八二年
「嗚呼、八木沢峠」の中で、ばっぱさんの母仁さんが写っている写真があったのを思い出しました。美子奥様にはいつも優しい眼差しで接していらしたことが家族アルバムに添え書きされていました。その家族アルバムの中の昭和15年1月帯広と書かれたばっぱさんに抱かれた先生と先生のお兄様とお姉さまの写真を拝見していて、私にはばっぱさんが不器量には思えませんし、何か凛としたところのある賢母の香りを感じます。