新米介護士

昨六日は広島原爆投下の日、毎年この日はなぜか猛暑の日が多い。広島にいた頃(ずいぶん昔)、二回ほど式典に参加したことがあるが、後頭部がじりじり焼けるように暑かったことを今でも覚えている(何年だったかは正確には覚えていない、24、5歳ころだ)。ところが今年の南相馬は数日前からずっと猛暑で、これは間違いなく異常気象。
 テレビのニュースを見るのも億劫なこの猛暑だが、広島のことは気にはなっていた。美子のために流しているCDがたまたま美空ひばりのもので、その中にある「一本の鉛筆」(松山善三作詞)を聞きながら犠牲者の追悼…おっとそれはあまりに不謹慎だろうが、この猛暑に免じて許してもらおう。

   ……
   一本の鉛筆があれば
   八月六日の朝と書く
   一本の鉛筆があれば
   人間のいのちと 私は書く

 ところでこの猛暑の中、三日ほど前から必要に迫られて老夫婦だけの生活に戻っている。以前なら台所に立つこともあったが今ではその元気はなく、食事はもっぱらスーパーのお弁当。排便はありがたいことに入浴サービスを週二回お願いしている「まことケア」のスタッフに夕方近く来ていただいているので問題なし。
 今晩の献立は、鰹のたたきとおこわ、味噌汁代わりの缶ビール(美子は吸い飲みに入れて)。デザートはオレンジ一個半分ずつ。本当はサラダが欲しかったのだが、買い忘れた。でも野菜は毎朝糖分抜きの野菜ジュースを飲んでいるから一食ぐらい抜いても大丈夫。
 美子は最近、極端に食べるペースが遅く、口を開けるのも緩慢になり、昼夜の食事は一時間以上かかるが、決して焦らず、美子のペースに合わせている。以前は厚さ大きさこれしかないというスプーン使っていたが、今回は私の右手。中東などの食事では指を使うが、それを真似ている。初めはうまくいかなかったが、今は物凄く(?)上達した。ご飯粒などでも三本、いや四本指を上手に使って、口をやわらかく開きながら、まるで手品師のように口の中に入れることが出来る。容器に残っているご飯の小さな山を見て、これが果たして、と思うが、四本の指をフル稼働させていつの間にか飯粒が消えているときの達成感、これ何物にも替えられません(?)。
 そんな現況を知って、渡辺一枝さんから先ほどこんなエールをいただいた。

「徐京植さんが【愛の巣】と書かれていたと思いますが、お食事のときを思い浮かべています。自分の手で食べられない人の口に食べものを運ぶには、理屈では無く技術でもなくコツでもなく、やっている人でなければ判らない、言葉にできない何かがあります。こんなことは私が言うまでもなく、よくよくご承知でいらっしゃるのだと思いますが、短い時間ではありましたが、私も母とそんな時を過ごしたことがありました。保育士時代にもまた、子供たちとの間にそんな時を持ったこともありました。なんと言ったらいいでしょうか? 共に息をする、とでも言ったらいいのでしょうか? 美子さんが、心地よくお通じがありますよう祈ります。」

 はい、もう少しで75歳になる新米介護士、頑張ります。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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新米介護士 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生の文章を拝読していて、モノディアロゴスの中で一貫して言われ続けている言葉が私の脳裏に過りました。

     「歴史は直線状に進むのではなく、自己を中心軸として螺旋状に積み重なる」

     気が向いた時に何気なく拝聴している「嗚呼、八木沢峠」の六枚目に皆さんが写っている写真がありますが、中央に立たれている先生のお顔の表情だけがなぜか私には憂いを含んでいるように感じます。それは生涯美子奥様をすべて認め引き受けるという覚悟を内に秘められてのことなのかも知れません。その時から半世紀近くの年月が経っても決して色褪せることのない先生の美子奥様への愛に螺旋状に積み重なると言われた言葉の重さを私は感じます。

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