南相馬日記 鄭周河

以下のものは、鄭周河(チョン・ジュハ)さんの昨春の日記である。本日、翻訳者の柳裕子(ゆう・ゆじゃ)さんから送られてきたものだが、本ブログをお読みの皆さんにも読んでいただきたく、折り返し柳さんを介して鄭さんのご了解を得、少し長いものだがその全文を以下に掲載することにした。
 なお本日、NHKチーフ・ディレクター鎌倉英也さんから、『奪われた野にも春は来るか』の再々放送の予告も届いたのでそれも合わせてお知らせします。


【本放送】 8月31日(日) あさ5:00~6:00 Eテレ
【再放送】 9月 6日(土) ひる13:00~14:00 Eテレ(但し、この再放送は、青森県、新潟県、長野県、愛知県、岐阜県、三重県、福岡県は別番組が放送されるため見られません)


 
南相馬日記1

1.
記憶、記憶は実に、時間とともに私から遠ざかっていく。最後に南相馬を訪れてからすでに一年がすぎた。2011年11月に初めて福島を訪れてから、私は今に至るまで何度かその場を訪れた。あまりにもよく知られている事実は、むしろ平板な感じを与えるものである。
 フクシマが持つ、時代/歴史的な誘惑は、忘却である。忘れたい、忘れなければならないという重圧感が、他のすべてのものを包み込んでいる。しかし、私たち/時代の責務は、同時に記憶である。記憶は証言を欲するが、時の流れに紛れて色あせていくものだ。これが、私/私たちがそこに行き、それを両の眼で見るべき理由であり、同時に私の写真の存在理由でもある。
 そうして二年の間、折にふれそこに通い、そこで撮影した写真を展示し、本も出版した。韓国で二度、また日本で六度の写真展をひらき、新たにフクシマを撮影し続けている。
 私はフクシマを南相馬という町から実感する。南相馬は、東京電力福島第一原発から北に20kmほど離れたところにある小さな町である。同時にここは福島県の県庁所在地である福島市から東に約70km離れており、海に面した場所である。私はここに深い愛着をもつようになり、今後も命の続く限り訪れつづけるつもりだ。
 今書いているこのささやかなエッセイ(小文)は、2013年3月に南相馬を訪れた記憶であり、その記憶の中に皆さんを招待したいと思う。
 帰る日、空港での出来事にはひどくとまどった。
 旅の最後の朝を気楽に、濃密な時間を過ごそうと歩き回った東京都内では特に変わったことはなかった。ただ、高層ビルの谷間に吹く風は普通には歩けないほど強かった。東京の東側、太平洋から吹いてくる海風は、道端の自転車やオートバイを押し倒し、ひょっとしたらビルの上から看板が落下してこないかと不安にさせた。でも幸い何事もなく、多少足取りが悲壮になりはしたが、無事にホテルに戻り空港に向かうことができた。
 成田空港はふたつある。第一ターミナルと第二ターミナルに分かれている。通常、韓国の旅行客は、東京で「空港行き」の電車に乗れば、何の疑問も持たずに終点まで行き、終点に着いたら降りる。しかし、搭乗する飛行機がJALの場合、一つ手前の駅で降りなければならないのだ。同行していたイ・ドングンさんは、私と一緒に終点の第一ターミナルでまで行き、荷物を引き、インフォーメーションでJALの場所を確認するまでそれを知らなかった。 幸い時間に余裕があったからよかったが、下手をしたら飛行機に乗り損ねるところだった。どうにかこうにかイ・ドングンさんを第二ターミナルに見送り、私は自分が搭乗するDALのカウンターを探した。
 荷物を預け、座席指定を受けるためのカウンターには長い列ができていて少々訝しくはあった。突然、DALの職員が「ソウル行きの方はいらっしゃいませんか?」と大声を上げて私の目の前に来た。私が手を挙げると、こちらにこいという手振りをしながらロープを外し、並んでいる人の合間を抜けて前に行けと言う。 ありがたい。ソウル行きがこんなにスムーズだとは。もしかしてソウル行きの客は優待される法でもできたのか? そして、カウンターでパスポートを見せ、手荷物を計量器に載せた。ふとカウンター横の柱時計みると出発時刻の2時間半前だった。ふぅ〜、長い休憩時間だな、と思っていると、目の前の女性係員が「キャンセル!キャンセル!」と言って私のパスポートを押し返した。話をよく聞いてみると、強風のため本日のソウル便はすべて欠航になったという。すなわち、足止めをくらったのだ。

2.
 鎌倉さん率いるNHKチームとともにミニバスで南相馬に行くふた月前、そしてそれは今から一週間前の3月6日、私は成田で降り、東京からレンタカーで一人南相馬に向かった。 すでに何度か通った道なのでむずかしくはなかった。ただ、左側通行に今だに慣れないため、スピードがどうしても出せないだけだった。
 延々7時間かけて南相馬に到着した。夕方も遅い時間になっていた。西内さんが手配してくれていたホテルを目指した。西内さんは、すでにホテルのロビーにいらっしゃり、私を歓迎してくれた。小柄で、純朴に生まれついたようなお姿だ。
 私が部屋に荷物を置いてロビーにもどると同時に、西内さんは食事に行こうとおっしゃった。もちろん、身振り手振りでのやりとりだ。 私は日本語を話せず、西内さんは韓国語も英語も話されない。しかし、今日初めて出会ったにも関わらず、私たち二人の顔と身振り手振りにぎこちなさはなかった。たとえ、もし私がいくらか日本語を勉強していたとしても、口をほんの少しだけ開いて話す西内さんの日本語は、いずれにしろ聞き取ることはできなかっただろう。あとでわかったことだが、東北弁という方言をお使いだそうだ。西内さんもやはり、少しの韓国語がお分かりになるより、あるいは英語をいくらか話されるよりも、いっそのこと今までの経験とお互いを理解しようとする気持ちで通じ合うやり方に馴染みをお持ちのようだった。
 店はホテルからそれほど離れてはいない小さな通りにあった。 そこは地元の人が出入りする、伝統と歴史のある店だと一目でわかった。扉をあけて入ってみると、小さな店に客がもう数人いて、ほろ酔い気分でにぎやかだった。
 私たちは案内された小さな畳の部屋に入った。向かい合わせに座ったが、西内さんは休みもせずにさっそく何かを教えるように話してくれて、確認して、説明もしてくれたが、私には全く分からず、ただただ西内さんの温かく優しいまなざしと真心のこもったお気持ちだけが伝わってきた。
 寿司がでてきた。一枚の板にぎっしりと盛られていたが、二人分には少々もの足りない感じだった。ビールを飲むか?という西内さんの言葉に感激して何度もうなずいた。はい!はい!
 西内さんはご自分の分の寿司まで私に薦めてくれた。 きっと私がかぶりつくようにしてあまりにおいしくいただいてしまったために遠慮された様子だった。 私がまた遠慮なく平らげてしまうと西内さんは店の主人を呼んだ。そして、何かをまた注文されたようで、しばらくすると出てきたものは、「寿司のような格好をしたキムパブ(キムパブは韓国の海苔巻き、一般的に海鮮は入らない)」だった。3人分よりももっとあるかと思えるほどの「キムパブ寿司」が出てきた。
 西内さんとの初対面はこんな様子だった。
 現在73歳でいらっしゃる大先輩。ここ南相馬に、生まれてこのかたずっと住んでいらっしゃる生粋の地元民だ。2011年3月11日以後も故郷を離れず守っていらっしゃる。彼は今、自分が繋がるへその緒の端であり、その存在理由でもあるここ南相馬の再生を夢見ている。
 彼の持つ生まれつきの肯定性は、あるいは愉快な楽天性は、彼の健康的な活動力の根源でもあり、そしてまた、未来の子どもたちにふるさとをもう一度返してやらねばなるまいという彼の一貫してゆるがない信念のエネルギーそのものでもあるだろう。
 遠い他国からふらりとやって来た異邦人に彼が見せてくれたのはこんなもてなしだった。

3.
 南相馬は私にとって対象であり出発でもある。
 すでに韓国で原子力発電所の周辺に暮らす人々の姿を「不安, 火-中」というタイトルで撮り続けてきた私としては、この南相馬の姿はかなり見慣れたものである。 破壊された東京電力福島第一原発の姿をまだ自分の眼で見ることはできていないが、たとえ 3・11以後の南相馬/福島の姿しか知らなくとも、原発周辺の町が持ついくつかの共通した雰囲気を感じさせるには十分である。
 どの国だろうが、大きな資本または権力が、国益と市民の安危を前に置いて何かをする時には、大体において同じような過程を経る。なによりも建設地の住民の同意を得る過程と、受け渡される利益の大きさと形態、そしてこれを取り巻く住民の態度がそれである。南相馬も例外ではなかった。奥深くに存在する不安を根源的に持ちながらも、外にはそれを見せないでいる。他の農/漁村と比べると、社会/国家の配慮がより多く施され、その恩恵の結果は私が経験した韓国の原発周辺の姿と酷似している。
 いや違う。韓国の姿はこれにすら及ばない。 特に建設後、相当年数が経つコリ(釜山広域市機張郡長安邑古里)、あるいはヨングァン(全南霊光郡弘農邑城山里)の原子力発電所周辺は、未だに住民と原発(韓国水資源公社)側との疎通はなだらかではなく苦痛の姿が如実に残っていたりする。
 このように対象化された一つの町の姿が、私の制作の出発と重なり合う姿は、まるで発電所で電気がつくられたあと外に出ていくようで、ふたたび個別の家庭内に入っていくありさまととてもよく似ている。人類はまだ線を通して電気を運んでいる。この線は、発電所を出て、もう一度どこかに入っていく。即ち、電気とは外に入っていくのである。この簡単な過程は、私が南相馬にて、古くからの韓国と日本の間の歴史を再び取り出して見てみる契機にもなった。
 現在の現象が過去の現象を呼び出すと現在と過去はまるでメビウスの輪がもつ構造のように時間の前後を分けることがむづかしくなる。
 西内さんが私にしてくれたもてなしの香気は、私の中に入り、そしてまた南相馬に向かった。その次の日の朝から東京に戻る日の夜更けまで、私は西内さんと共に動いた。眠るとき以外はずっと一緒だった。
 西内さんは、ここ南相馬の地理にとても明るいだけでなく、写真についても多くの知識を持っていらした。よって、私がここで作業をするにあたって、よいビューポイントを紹介してくれようとした。当然であろう。ここで生まれ育った方なのだから。しかし、ただ故郷だから、知っている場所だからと異邦人の私に案内を申し出てくれたのではなく、その異邦人がもう少し内密な場所をより詳しく真摯に見つめられるように配慮を忍ばせてくださったのだと推測する。おかげで、私がいままで何度かここを訪れながらもいくことができなかったところを西内さんの大きな乗用車での案内でしっかりと見ることができ、どんなところが前と変わりない姿のままでいるのかもしっかりと見ることができた。

4.
 日本政府当局は2013年から第一原発周辺の10km地点までを解放した。
 それまで制限区域が20km地点までであったために入ることができなかった所まで出入りが許容されたということだ。
 その中でも特に西内さんが私に心を込めて案内してくれたところは小高地区であった。 あいかわらずもの寂しい姿のいくつかの神社を訪れることができ、海につながれた廃漁村の姿は、少しだけ心を開いて眺め見れば以前の平和を感じることができた。私は、これからはここに今も住み続けている人たちの姿を少しずつでも撮影し続けたい、という希望を、手振りと片言の日本語でなんとか伝えようとした。
 ここ小高にはまだ人の姿がほとんどなかった。しかしあちこちで整備し復興させようという様子は見られた。ややもすれば、ここもやがてあたらしい姿に生まれ変わるだろう。時折、建物の壁や出入り口の上に見える「がんばろう 南相馬!」という語句がそれを証明するかのようだ。
 しかし私の眼にはここの姿は何かが一つ欠けているように見える。
 韓国には「牛失って牛小屋直す」ということわざがある。どういう意味かと言うと、事前に準備をしないで事が起きた後になって初めて驚き、どんなことにも備えようとすることをあざ笑う言葉だ。しかし、現実的には、牛を失ったら牛小屋を直して当然だ。もしそうしなければ、次にまた同じ失敗をおかしてしまうからだ。しかしそれよりもっと重要なことがあるのではないだろうか?
 牛を失って、牛小屋を直すよりまずしなければならないことは、一体どうして牛を失うことになってしまったか原因をよく探すことであろう。とても辛く苦しいことだが、自分の問題/失敗を直視することは非常に重要だ。それこそが今ここ南相馬に欠けているのだ。
 2011年3月11日午後に起きた津波は過去の「(一回性の)事件」と言ってしまえるが、それにより発生した放射能問題は今を越えて未来にまでつながる「現在進行」の問題になった。
 西洋の時間論で考えると、単に今から未来につながる単線的な問題だろうが、東洋の輪廻という時間論で考えれば、未来と現在は繋がっているものであり、よって「今」は終わりのない「今」であり、これは即ち「未来」でもある。また、未来に到来する問題が過去から出発してつながるものだとしたら、過去は絶えず未来に顕現するだろう。
 再び、今の南相馬がするべきことは、まず牛小屋を直すよりは、冷徹に、より深く、流出している放射能の内側を見つめなければならないのではないか? そこに含まれるいくつかの名詞(よく知られている名前)すなわち、政治、権力、地域、お金、欲望、無関心、傲慢、喪失、階層、偏見等々を直視し、何に由縁して今回の事態が起きたのかを確かめる「事」である。
 ひょっとして、西内さんは友人である佐々木先生「によって」或は「とともに」この事をしていらっしゃるのかもしれない。
 いや、そうしていらっしゃるのだ。

5.
 佐々木先生は、西内さんと小学校からの友人だ。いわば幼なじみである。 お二人の友情がどれほどの深さを持つのか私には推し量るのがむずかしい。しかし、佐々木さんの本『原発禍を生きる』を読むと、お二人の長い友情はかなり独特なものだと確信できる。
 佐々木さんは、三世代でお住まいだ。そして、彼はスペイン思想家であり、人類学者だ。
 西内さんが体ならば、佐々木さんは頭だ。思惟が深く精巧でありながら太い直線を予感させる。
 南相馬についた次の日、私と西内さんを招待してくださったご自宅での歓待は、彼の孫の愛ちゃんが私に見せてくれたありったけの好意に象徴される。息子さん夫婦と病身の妻、眼に入れても痛くない孫娘が、放射能の磁場の中で思惟の重い重力に打ち勝ちながら共に暮らしているのだ。
 佐々木さんのお母さんが建てたという家は、素朴でありながら実用的に設計されていて、それに加えて佐々木さんは応接室をご自分の書斎にされ、そして彼が愛用するパソコンは、妻が寝ている寝室の窓際に置き、ここ南相馬の「今」を電波を通して世界に知らせている。
 佐々木さんが私に与えてくれた深い印象は、彼の暮らしが担っている圧倒的な困難さや苦痛のただ中にありながらも、その苦痛のそぶりや表情を全く見せないところにある。彼は、いつもそうしてきたように、あるいは、これからも常にそうであるように、変わりない姿で人に接する。
 彼の顔に込められた真摯さは、きっと若い頃からの深い思惟の積み重ねによるのであろう。決して今回の事態がもたらした苦痛の結果ではない。彼が、「魂の重心」を強調し、渦中に立って外に怒りの声をあげる時でさえ、彼の表情はゆるがない。
 西内さんが「海」ならば、佐々木さんは「山」である。彼が孫娘の愛ちゃんをどう教育しているのか知らない。しかし、愛ちゃんが私に見せてくれるどっしりとした好意はきっとおじいちゃんの温かい教育の賜物と思える。その上、愛ちゃんのお母さんの真心こもった料理と息子さんの落ち着いた振る舞いは、恐縮しながら訪問した異邦人の心を温かい感動に包んでくれた。これもまた佐々木さんがご家族にもたらした温かい教育の結果だろう。
 西内さんが、手土産に持ってきた一升瓶はもうそこをついてしまった。半分以上、私が飲んでしまったようだ。

6.
 翌日は、佐々木さんと共に三人で「10km」圏内を旅した。無線塔は、前の日にも西内さんと見に来たが、再び訪れてみた。
 無線塔。新しく発見された象徴であるかのように、何度かにかけて佐々木さんの説明があった。
 私の英語力が足りず、佐々木さんの英語での説明を明確に理解することはできなかったが、少なくとも、塔がもつ歴史の骨組みは理解できた。
 私には、彼が説明してくれた無線塔の歴史よりも彼の幼い頃の話がより心にせまった。無線塔が何なのかよく知らなかった子どもの頃、よそに出かけて帰ってくる時、遠くから無線塔が見えると、「あ、帰ってきた。もうすぐ家だ」という安堵感を覚えたそうだ。
 それは、まるで、私の子どもの頃の記憶のようだ。 私が生まれた仁川には有名な公園があった。自由公園だ。年を重ね歴史を学ぶまで、私はその公園の名に一度も疑問を持った事がなかった。ただ「自由公園」だと思っていた。そして、公園のもっとも小高い場所には、マッカーサー将軍のりっぱな銅像があり、私たちはその公園にいくといつもその周りで遊んでいた。その上、そのりっぱな将軍の姿に欽慕の気持ちをいだきもした。しかし、朝鮮戦争とマッカーサーと原子爆弾と北朝鮮軍と中国共産党軍と国連軍と米軍と李承晩と日本軍とアジアを少しずつ学んでいくと、子どもの頃のその記憶が徐々に歪み始めた。
 それは、佐々木さんが無線塔についてのおぼろげな記憶の中に歴史性を代入する瞬間と同じだ。当時、200mの高さの無線塔を建築するためには多くの人の危険と犠牲が前提にあったことを幼い頃には想像もしなかっただろう。でも、今、歴史の中に心を寄せて知る真実は、その塔の建設には、死刑囚と朝鮮から徴用されてきた人々が多数参与していたのだ。
 佐々木さんは、それを苦しい心境で直視し、反省とともに東南アジアと日本帝国主義を掘り起こしながら、ご自分/日本の責務を重くうけとめ、同時に連帯の手を差し出そうと力をつくしていらっしゃる。
 幼い頃の歴史不在のマッカーサーの銅像と今の私は、未だもって和解ができないでいる。

7.
 佐々木さんは私に多くの話をしてくれた。しかし、中でも彼が特に自負心を持って聞かせてくれた話は、南相馬出身の文人たちの話だった。これはもちろん、この地域の郷土博物館でも扱われていることであり、また関心がある人ならば誰でも知っているほどの有名な文人たちでもある。
 それだけではなく、南相馬市内の中央図書館に行けば、彼らの作品がもれなく所蔵されていて誰でも容易に借りることができる。また、図書館の西側廊下の入り口には彼らの肖像写真と略歴、主要作品の概要が大きなボードで常設展示となっている。しかし、印象的だったのは、このようによく知られていることを佐々木さんがとても慎重に真摯に説明することだった。このことは西内さんも同様だった。私たちが小高へともに訪れた時には、ある文人の墓を訪ね、短い時間ではあったが墓参りもした。異邦人である私を連れてだ。
 このお二人の態度が象徴するものは何か。どうしてこのお二人は、今ここで南相馬が遭遇している困難や、或いは進むべき方向についての話よりも、この土地出身の文人や学者たちがどんないずまいで多くの作品を「ここ」で生み出したかを話すのか?ただ、過去の輝かしい姿を想起しているのか?
 お二人が望んでいるのは、「単純な自慢」でないならば、それはきっと「根に対する切望」であろう。歴史を回帰し過去の美しさを誉め称えるのでなく、この地が今の困難を踏まえて前に進むために必要なものがあるとすれば、それは「まっすぐな視線」を維持することができる「思惟の滋養分」であるだろうことをお二人はよくご存知だからこそそうなさるのだと思った。滋養分の供給は当然「根」から始まる。深い根の固い結束は、吹く風や吹雪が直面しようと揺らぐことはない。その根を探し確認し私の中に移植された時「今」「ここで」「未来」を夢みることができるだろう。
 ああ、佐々木さん、西内さん!

  2013-03-26


                 鄭周河  

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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南相馬日記 鄭周河 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     鄭氏の写真集が机上に無造作に置かれてあり、徐にページを捲っていました。鄭氏は何を写真で表現されたかったのか。原発事故後のありのままの福島の風景、とは別に何かを表現されたかったはず、その何かを先生と西内さんとの南相馬市での交流の中から微かな片鱗を掴み取ろうとされていたのではないか。

     生の終着駅に死があるという厳然たる事実を誤魔化さず、真摯に向き合うことで、人間の生きる意味(意義)への意志は、明確な他者(被災者)認識へと結びつく、鄭氏の言われる「根」にはそういう深い意味(洞察)があるように私は思います。鄭氏の写真を芸術の域まで高められているのも、そこにあるのかも知れません。ふと、先生の『島尾敏雄の周辺』の「死霊を求めて 作家埴谷雄高とともに」にこんな文章があったのを思い出しました。

     「死んだものはもう帰ってこない。生きてるものは生きていることしか語らない。」これは「永久革命者の悲哀」全編を流れる無気味なリフレインだが、ぼくたち現代人にどこか欠けているところがあるとすれば、それはただ生の側にのみに目を向けて、そこにしがみつき、生のあちら側の声を聞こうともしない傲岸さにちがいない。

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