辺野古の海からの使者

誰かから命じられたのではなく、自ら追い込んだ形の逼塞の日々が続いたあと、今日はそれが一気に晴れに転じる日となった。いちいち来客のお名前を報告していたら、そのうち警戒されて誰も来なくなるかも知れないが、今日は久しぶりのことでそれも許していただきたい。
 まず昼前、これは以前から予定されていた訪問だったが、伊達市で地域おこし支援員として働きながら、この四月から福島大学の経済学部大学院で勉強している■さんが愛車を駆って訪ねてきた。人との会話に飢えていた私にとっては飛んで火に入る夏の虫とばかりに、現今の社会情勢やらサンプラスイチ語学塾のことやら矢継ぎ早に話を仕掛けていくが、もちろん彼女からも即答が返ってきて楽しい会話となった。
 簡単な昼食、と言ってもスーパーから買ってきたピザをチンしてもらっただけの軽食だが、を食べているところに、渡辺一技さんから電話が入った。実は昨日から南相馬入りしておられたのだが、万が一ぽっかり空き時間が出来たらお寄りいただけないかとのお誘いに応じてくださったわけだ。私としては■さんをぜひ紹介したかったし、さらにはこれこそ西内さんをお二方に紹介する絶好のチャンスと考え、即座に彼に電話すると、幸いなことに彼にも支障がないとの返事。つまり互いに初対面の三人が今日思いがけなく一堂に会する展開になったわけだ。
 さあ、渡辺さん、西内さんも加わって総勢四人、時間も忘れていろんなことを話し合うことができた。被災地の現実、地域社会だけでなく家族間にも深刻の度を深めている現象、つまりこれまで曲りなりもあった人間間、家族間の絆がいまやずたずたに切れている悲しい現実、私の拙い言葉遣いによるならいわゆる魂の液状化現象、そしていよいよおかしくなって来た日本社会の現状に話題は集中した。しかしここで負けてはいられない、初めは点かも知れないが共通の問題意識を持った者同士が交流を絶やさず頑張れば、いつかそれら点が線へと繋がっていくはず、ここは諦めず、しつこく頑張っていくしかない、というような話となった。
 つまり革命などで一気に社会変革を目指すのではなく(そんなことはわれわれには土台無理な話だし、革命が結局は為政者たちの交替に終わってしまう悲劇が歴史上、何度も繰り返されてきたのだから)、また署名運動やデモ(もちろんそれなりの効果や意義は認めるが)によってではなく、地道に弛まず個々人の連帯を深めていく以外に方法は無いだろうということだ。たとえば今日の午後、これまで一切の繋がりが無かった者同士が一気に仲間を増やしたように。
 そこに佐喜真美術館の■さんから大きな封筒が届いた。来客の前なので取りあえず中に入っていた「琉球新報」8月24日号だけを取り出し、大きな見出しで報じられている辺野古の危機を皆で改めて確認するにとどめた。
 しかし皆さんが帰られてから、封筒の中の■さんのお手紙ならびに何やら得体の知れない小さな包みを開いて、あゝ皆さんにも見ていただけばよかったのに、と臍(ホゾ)を噛んだが後の祭り。つまりその小さな包みの中身は、■さんが辺野古の海辺で拾った5、6個ほどの小さな可愛らしい貝殻であり、新聞の最終ページには少なくとも■さんと私にはおなじみの人の写真があったからだ。つまり私より以前に■さんの友人であった■さん、辺野古への基地移転を強く抗議するプラカード、「HENOKO 大好き 海をよごすな」を持った■さんの写真が載っていたのだ。
 ということは、実は今日の出会いは、図らずも合計六人の同志が集まったことになる。つまりオキナワから■さんと■さんが手紙と写真で参加したことになるから。これこそ人と人の結びつきにおいて、点がいつの間にか線に繋がることの具体例ではないだろうか。
 ■さんと■さんの「参加」については、遅ればせながら今晩にでも渡辺さん、■さん、西内さんに…いやこのブログを読んでもらえばいいわけだ。そう、今日の話合いでも話題になったが、屁でもない用途にも使われているインターネットは、使い方一つで、この世の変革を希求する者たちの連帯を一気に加速する実に重宝な手段になるということだ。
 さて辺野古の海岸にあった小さな貝殻たち、君たちは一人の乙女の移ろいやすい感傷によって拾われてここにこうして並んでいるわけではなかろう。愚かな為政者たちの愚劣きわまりない政策によって今にも汚されようとしている美しい海の、精一杯の異議申し立て者として、この老人の前にやってきたことを痛切に感じている、いやもっと直截に言えば、何も手助けできないおのれの無力さに恥じ入っている。
 たとえ非人道的な手段で埋め立て工事が進捗する方向に進もうとも、君たちの挙げる嘆きの声は決して忘れない……フクシマの海も山も空も放射能に汚されてしまったが、何十年、いや何百年かかろうと、その恨みは必ず晴らしたいと考え祈っているように。残された私自身の時間はもう限られているが(あと数日で75歳になる)、しかし次代を担う若者たちに必ず君たちの祈りを、願いを伝え、委託してから死んでいきたい。

【息子注】文中の人物については、父の死後、思うところあって伏字にした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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辺野古の海からの使者 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生、お誕生日おめでとうございます。

     モノディアロゴスは先生が62歳の時から執筆され、今日75歳になられても継続されていることの重みを読者の一人として強く感じています。なかなか何事も続かないのが人間です。それだけ人間は環境や気分に左右され、覚悟したこと決心したことでも月日の経過につれて心身ともに萎えてしまい投げ出してしまうものなんでしょう。美子奥様の介護をお一人でされることを楽しむと言われた先生の心意気には頭が下がります。ばっぱさん越えの百歳まで後25年ありますから、益々お元気でモノディアロゴスを執筆されることを切望します。また、それが点を線にし、さらに面となっていく確実な道筋だと私は信じています。

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