『虹の橋 拾遺』

ばっぱさんと同じ誕生日の健次郎叔父は御歳97歳。自分の年齢を考えて時おり悲しくなるひ弱な甥にとって、この叔父の存在は誠に頼もしい。ばっぱさんも十和田くんだりまで避難させられなかったら、いままだ102歳で生きていたはずと、ときおり臍を噬む。
 ばっぱさんのことはともかく、その叔父が先ほど(午後三時)突然電話をかけてきて、「たーちゃん、ゲニ、ってどういう意味?」と訊いてきた。「ゲニ、それどんなところで使うの?」「待ってて、もう一度かけ直すから」 しばらく経つとまたかかってきた。「唱歌の《冬景色》の中に、げに小春日の のどけしや」ってのがあるしょ、その意味さ」「えっ、ああそれはね、まことに、実に、という意味だと思うよ」「あっそかそか」
 文学好きの祖父・幾太郎から徳富蘆花の本名・健次郎をつけてもらい、日ごろから哲学や宗教の難しい本を読んでいるのに、小さい時に覚えた唱歌の文句が分からなくなったの? それ少しヤバクない? もちろんそれは口にせず、胸の中でつぶやく。
 それにしても今どこからかけてるんだろ? こんな昼日中、カラオケにこもっているわけもないし、あっもしかしてパークゴルフ? ここ原町はどんよりと曇って陰気な午後だけれど、北の大地・帯広の天気は? さっそくネットで調べると、晴れ、気温2度、湿度52、北西の風2メートル、ちょっと寒いけどやっぱパークゴルフの途中みたい。
 ともあればっぱさんの誕生日(健次郎叔父のものでもある)七月三十日に間に合わせるはずだった『虹の橋 拾遺』をなるたけ早く作って、昔の記憶のホコロビを繕ってもらわなきゃ。
 それで急遽、以下のような「編者あとがき」を加えて、呑空庵から印刷・出版することにした。全部で105ページほどの小冊子となる。たぶん送料込み450円にするつもり。興味ある方は先行予約をどうぞ。


編者あとがき

 今年ばっぱさんの102回目の誕生日に間に合わせようと思ったのに、生活形態の激変やら、美子の一段高くなった介護ステージ(?)の始まりなどでぼやぼやしているうち、はや師走に入ってしまった。
 前著『虹の橋』に未収録の雑文や俳句・短歌など気のついたものだけを取り合えずまとめてみた。実はよく探せば、まだまだ見つかると思うが、それは『拾遺集補遺』とでも名づけて別の機会にまわそう。
 今回はばっぱさんの書いたもの以外に、ばっぱさんのお母さん安藤仁の思い出の記二つ、お父さん安藤幾太郎の家史二つ(つまり養子先の安藤家と実家・井上家のもの)と、ばっぱさんの叔母(島尾敏雄の母)の手紙も収録した。祖母・仁の「思い出」は入り婿・幾太郎との不幸な(?)結婚、その婿が株に手を出して安藤家の全財産を失い、北海道十勝の山奥に入植しなければならなくなった悲劇をたどる恨み節となっているが、良くぞ書き残してくれたと、孫の私にとっては感謝と感動の記録に思える。
 世間ではいまや加熱気味の益体もないプライバシー尊重からすれば、こんな恥さらしを世間様に公表するなど、と眉をしかめる御仁がいるかも知れないが、そう言う人に言いたい。あなたは有名な作家や詩人の作品を読んで感動したことはないか、それによってあなたの人生そのものに貴重な指針を得たことはないか。でも人間の喜び、悲しみ、そして怒りは、作家や詩人の専売特許だろうか? たとえばこの仁ばあさんの嗟嘆の声は、人知れず、さらには肉親さえ気付かず引き出しの奥深く、いつか腐り果てるべきものとでもお思いか? いやいや、すべての人間の喜び、悲しみ、そして怒りは、言うなれば人類の共有財産であり、作家の有名作品同様の存在理由を持っている
 私自身、不如意な日常の中で「モノディアロゴス」という駄文を書き続けているのも、それ以外の理由を持っているわけではない。「我かく生き、かく戦えり」というメッセージを残すためである。願わくはその戦いが「良き戦い」であることを願いながら。
 その意味で、我が母・千代は天晴れな生涯を全うしたと思う。一見して、原発事故の被災者として惨めな死を迎えたように見えるであろうが、どうしてどうして、ばっぱさんの反原発の強い願いは、かく言う息子の私にも強く引き継がれ、さらに多くの人に伝わっていくはず。決して負け戦ではない。
 編者のあとがきとしては、思わず地の声を出してしまったが、これもばっぱさんのDNAのせいと、勘弁願いたい。

二〇一四年十二月四日    千代の次男・孝記す


※追記 ついでに目次をご紹介しておく。

 思い出の中の中国大陸(一九八二年)                 1
 秋風に寄せて(一九八二年)                     9
 一冊のノートから(一九八二年)                  16
 大江健三郎さんの受賞と記念講演のテーマについて(一九九四年)   22
 回顧録 其の三 壁(二〇〇〇年)                 29
 「あいまい文化論」について(二〇〇三年)             32
 老人日記 其の四(二〇〇四年)                  35
 近詠十首(一九八二年)                      37
 研修の旅(一九九三年)                      24
 北海道フェリーの旅(一九九四年)                 42
 葛尾村史跡探訪(一九九五年)                   44
 三春探訪史跡めぐり(一九九五年)                 45
 楢葉天神岬潮風荘の集ひ(一九九五年)               46
 銀山温泉~奥州路(一九九七年)                  48
 然別湖の秋(一九九七年)                     50
 奥日光 冬の旅(一九九六年)                   52
 心にひびくコンサート(一九九七年)                54
 二度目の出会い 全盲のオルガン奏者(二〇〇〇年)         57
 横笛コンサートに寄せて(二〇〇二年)               59
 幼き日の思い出(大正九年~十三年)(二〇〇一年)         61
 思い出 安藤仁(一九六四年)                   66
 私の思い出(執筆年次不明)                    76
 トシ子さんの手紙(一九三一年)                  79
 吾が家史(安藤家)安藤幾太郎(一九四七年)            85
 吾が家史(井上家)安藤幾太郎(一九七四年)            89
 老人身障者対策趣意書(一九七五年)                93
 一通の書簡(孝宛て)(一九六〇年)                99 
 編者あとがき                          104

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

『虹の橋 拾遺』 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     物情騒然とした今の日本社会に、ばっぱさんの生き方、考え方から学ぶことは多々あると私は思います。このたび先生が、『虹の橋 拾遺』を世に出されることは大きな意味があります。2012年1月4日「大往生」でのユイコさんのコメントを思い出して、この本が真の意味で「虹の橋」となることを切望します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください