あの日とはもう

【息子追記】「損得勘定を振り払いながら」「たぶん死後、いや確実に死後、だれかが見つけ、評価してくれること」を願っていた父の思いに応えてあげたい。だから、少なくともこのモノディアロゴスのウェブ版は、わが家の魂の遺産としてだけでなく、いつか新たに父の思索に共鳴する人の出現を願い、代々に引き継いでいくつもりだ(2021年2月21日)。

この数日間、ひたすら私家本を作り続けている。現在まで『虹の橋 拾遺』33冊、『内部へ!』59冊。ときどきアホらしくならないわけではないが、そうした雑念、正確に言うと損得勘定を振り払いながら作り続けている。今日、我が家に本を借りに来たT君にも言ったことだが、いまや斜陽の商業出版社などアテにせず、こうして私家本として作っておけば、いつか、たぶん死後、いや確実に死後、だれかが見つけ、評価してくれるかも知れない。それくらいの覚悟で作り続けている、と。
 相変わらず美子の食事介助は難航を極めているが、めげずに頑張っている。そのせいあってか、訪問入浴のヘルパーさんにも、排便ケアの訪看さんにも、このごろ顔色も良く、ときおり笑顔も見せてくれ、旦那さん(私のことです)のお世話が上手だからですね、と褒められている。口を開けることと食べることとの関係性(哲学的な表現を使えば)を認識できない美子が、食事中きげん良く笑う時があっても、だからと言って口を開けてくれないときなど、絶望の淵に立たされているような(もちろん大げさだが)気分になる。しかしそんなときでも、ひたすらおのれの至らなさを思って耐えている(これは謙遜のし過ぎ)。
 このごろ夕食のとき、いろいろと過去の楽しい思い出を美子に語ることにしている。今晩は最初にして最後の北海道旅行のことを話題にした。おそらく何も理解できないのであろうが、でも脳の襞にこびりついた言葉がいつか意味ある言葉として彼女の心に響いてくれることを願いながら楽しく語り聞かせている。そんなときBGMとして美空ひばりやテレサ・テンのCDを流す。
 ところでそのテレサ・テンのCD、『ベスト&ベスト』を聞いていて何時も気になる箇所がある。つまり「ウナ・セラ・ディ東京」の「アノヒトハモウ」が「あの日とはもう」に聞こえてしまうのだ。もちろんその後の歌詞「私のことはもう忘れたのかしら」を聞けば、それが「あの人はもう」だと分かるのだが。このCDには彼女以外の歌手のヒット曲、「津軽海峡冬景色」や「冬の宿」などをカバーしており、時にオリジナルの歌手より情感のこもった歌い方をしている。つまり彼女は完璧な日本語で歌っているのだが、その彼女にしても「ヒ・ト」の微妙な力点の置き方が間違っているわけだ。なんて偉そうなことは言えないが。
 とかなんとか馬鹿なことを書いているうちに、明日は大晦日。さきほど西内さんが年越しにどうぞ、と奥様の公子さんが作った黒豆と数の子を置いていった。まったく「遠くの肉親より近くの友人」、ありがたいことこの上なし。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

あの日とはもう への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     貞房先生、一年間ありがとうございます。

     私は「こころの時代」を若いころから見ていて、昔は「宗教の時間」と言ってましたが、その番組に先生が出演され、そのご縁で先生を知りました。最初は単なる興味本位でモノディアロゴスを拝読してましたが、拝読すればするほど先生の生き方に魅力を感じ三年経ってしまいました。三年経ってみて、先生が2002年12月31日「かくして移住一年目は」の最後で、なぜこの文章を引用されたかの意味だけはわかりました。

     私は、私と私の環境である。もしこの環境を救わないなら、私をも救えない (オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』より)

     世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない (宮澤賢治『農民芸術概論綱要』より)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください