お寂しゅうなりましたなぁ

今年はこれまででいちばん寂しいクリスマス・イヴとなった。寂しいついでに、寂しい話をいくつか。
 一昨日、家の北側、電柱側にあった大きな木を二本、東北電力さんに伐ってもらった。依頼したのは三ヶ月ほど前のことだが、ようやく順番が回ってきたらしい。厳密に言うと一本は我が家の敷地内だが、もう一本は駐車場に使わせてもらっているMさんの敷地内にあり(もちろん伐採の了承は事前に得た)、この二本の大木のせいで風呂場あたりが暗くなるし、小鳥がとまってウンチをするので、車のフロントガラスが何時も糞まみれなっていた。そうした理由から、伐採を願い出たわけだが、さて何ていう名の木だろうか。大きさから言ってもばっぱさんがここに家を建てた時に植えたものらしいが、となると樹齢は半世紀を越える。
 でも日照や小鳥の糞程度で伐採したことが、ちょっと人間の身勝手なような気もしてくる。しかしおかげで風呂場あたりが数段明るくなった。木ーさん、すまんがありがとう。この「木-さん」という言い方は、以前大熊町のグループホーム(美子の母のウメさんが世話になっていた)への十日ごとの行き帰りに、確か浪江町あたりの道路沿いにあった形のいい大木に美子が呼びかけたときのものだ。本当に惚れぼれするような見事な木ーさんだった。だから今回の伐採について、美子ならどう判断したかちょっと気になる。
 もう一つ、以前ここでも話題にしたことがあるが、太宰治の「哀れ蚊」にまつわる話。灯油ストーブの暖かさに誘われたのか、ときおり時期外れの蚊(らしい)が出てくる。以前なら即座に叩きつぶしたが、このごろはなぜかそれがためらわれる。あんな小さな体にも宿っている生命のことを考えてしまうからだ。題名は忘れたが、芥川の短編にも蟻を踏み潰さなかった男が、地獄落ちを免れて極楽に行く話があったと思うが(すぐ調べられることなのに、今回は勘弁していただく、誰に?)自分自身の老い先を考えてその男の心境に近くなってきたのであろうか。とすると、これも寂しい話ではある。
 最後の寂しい話は木や蚊とは同列に話せないレベルの話である。つまり人間の死について。同列に語れないと言いながら、同じ「寂しい」話として語るのでは、と死んだばっぱさんに叱られそうだ。むかし、八王子時代、近所の野良猫たちの世話をしていたことがあり、その内の一匹の死を、夏の終わりに死んだ義父の話とからませてこんな風に書いたことに対するばっぱさんの反応だった。

「八月の最後の日、今年九十二歳になった妻の父が、一年半ばかり入院していた近くの病院で死んだ。近所の人もおそらくなにも気づかないほど静かな細波がたっただけの三日間だったが、神秘的な勘の働く猫たちがこのどさくさの中で何かを察知してどこかに行ってしまうのでは、と恐れたが、それは杞憂に終わった。日中どこかに一時避難していたのか姿が見えなかったが、夜になったらまた帰ってきていた。
 猫の死と人間の死を同列に扱うのは人間に対する冒涜ととられるだろうが、しかし今年の夏の猛暑と、今朝あたりの風に含まれる唐突と言ってもいい秋の気配といった自然界の大きな循環の中で、人間と動物の違いなどどうでもいいことのように思えてくる。
 家族だけのしめやかな野辺送りの日は、もしかしてこの夏最高の暑さだったかも知れない。そしてその帰り、車の窓から見た巨大な積乱雲の連なりは、まるで行く夏を惜しむかのように打ち上げられた天然の花火であった。御陵に続く甲州街道の街路樹が、まだまだ青々と繁っているはずなのに、夏の終わりのその光と影の中で、すでに黄葉の時期を迎えた公孫樹並木と錯覚された。」(『切り通しの向こう側』所収「猫まみれ」最終章)

 死んだばっぱさんには悪いけれど、いまもその考えは変わらない。つまりばっぱさんの反応は、あまりにも人間中心に傾きすぎたキリスト教的世界観に骨がらみになった考え方だと思うからだ。かと言って、デング熱を媒介する何とかという蚊が来たら即座に叩き潰すけれど。
 おっと横道に逸れて肝心なことを忘れていた。最後の寂しい話は隣人Mさんの死である。夏ごろから時おり病院の車が止まっていて、どこか具合が悪いのかな、と心配していたが、先日、震災後の私有地境界線の確認に来た国土省の(?)係員にMさんの死を教えられたのである。震災前なら回覧板のことで近所を訪ねることがあったのに、震災後はそれもぱたりと止まって、近所の消息が全く分からなくなっていた。回覧板だけでなく、山形におられる妹さんから貰ったものだけれど、とサクランボを毎年いただいたり、路地で出会う愛のことをいつも可愛がってくれた優しいおばあさん。確かばっぱさんより少し若いけれど当時には珍しい女子大出の上品なおばあさんだった。
 大木の伐採が終わった日、とりあえず有り合わせのお花と、ばっぱさんの『虹の橋 拾遺』を霊前に供えてもらえれば、と隣家を訪ねた。ずいぶん昔のことになるが息子さんが撮影飛行機事故で亡くなり、そのお嫁さんが数年前からMさんとご一緒に暮らしていたのだが、玄関先に出てこられたそのお嫁さん(といっても確かもう成人された二人の息子さんのお母さんだが)知らせもしないで失礼しました、と恐縮された。寂しくなりましたねー、でも残された私たち、死者たちの分まで頑張って生きましょうね、という当方の変なご挨拶に、それまで泣かれていたようなお顔を笑顔に変えてくださった。
 「寂しくなりましたねー」、これは小津安二郎の名作『東京物語』のラストシーンで、亡妻を葬って我が家に帰ってきた笠智衆へ向かって近所のおばさんがかけてくれた言葉である。


※追記
 「東京物語」のラストシーンのセリフを確かめたくなって、古いビデオを引っ張り出してきた。最後の数シーンを見ているうち、あの当時の日本人たちの品の良さ、本当の優しい思いやりの心が伝わってきて思わず泣いてしまった。
 ところで予想通り、おばさんの言葉は方言なまりの美しい日本語で「お寂しゅうなりましたなぁ」だった。表題だけを改める。


【息子追記】小津安二郎の『東京物語』を父は特に評価していて、最晩年、死の数か月前のラジオ出演でも取り上げていた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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お寂しゅうなりましたなぁ への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     小津監督の「東京物語」をユーチューブで生まれて初めて観ました。モノディアロゴスの中に小津監督のお名前が何度も出て来るので、先生のお好きな映画だとは思っていましたが、三年間モノディアロゴスを拝読してきた一読者として、魂の重心を限りなく低くして、自分の心で感じた言葉だと、主人公の笠智衆と原節子の演技を見ていて感じました。それは先生が指摘されているローアングルからの視点、まさに小津監督の生きている人間を表現する哲学そのものではないかと私は思います。

     美子奥様が「木ーさん」と言われている文章は、『モノディアロゴスⅡ』の中の(「風情のある木ーさん」2004年5月15日)にあることは知っていましたが、「木ーさん」という表現を木に対して使われていることに美子奥様の豊かな感受性と温かなご性格を私は感じます。

     「こころの時代」にも出演されていた仏教・インド哲学の泰斗の故中村元氏は生涯の学究生活で辿り着いた結論は、人間にとって最も大切なことは「温かなこころ」だと言われています。それは時代を超えて永遠に続く真に人間として生きていくための心構えなのかも知れません。そして、小津安二郎の「東京物語」に国や時代を超えた普遍性を私は感じます。

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