古い伝言板から

一昨日から川口の孫二人(もちろん母親に連れられて)が来て、我が家にも久方ぶりに子どもたちの声が響いている。この四月からそれぞれ小五と小三になる男の子で、上の子はいま野球に、とりわけ阪神にはまっているそうで、昨晩の夕食の途中、何とかという選手(確か上本?)の打撃フォームまで真似してくれた。
 小さな子どもの相手をするのも久しぶりなので、このお爺ちゃんまだほとんど彼らと話し合っていない。というより、正直なところ、彼らが外孫であることに多少の遠慮があるのかも知れない。外孫内孫なんてもしかして今じゃ死語になっている考え方だろうか。だいいち父方の祖父母共に私が生まれたときにはすでに他界していたせいもあるが、私にとっては祖父母はまずは母方のそれだったし。でも明日は帰ってしまうので、今日の夕食は美子も車椅子に載せてみなで食卓を囲みながら、お爺ちゃんの為になる話でもしてやろうかな、と考えている。為になる(?)いやお説教ではなく、面白くて為になる話。さてどんな話になるか、お楽しみ。
 彼らが来たからではなく、その前から何か落ち着かない数日を過ごしていた。こんな時にはいつもの手仕事をするに若(し)くはないと、例の装丁の仕事を時間を見つけてはやってきた。今回は作りっぱなしのまま書棚に並べていた私家本がターゲット。『モノディアロゴス』シリーズはⅡからXIまで終えて、昨日は『新たな人間学を目指して』だった。美子の古いムームー(と言うんでしたっけ?)、草木染め(って言うんでしたっけ?)にされた麻のような肌触りの布を解体して厚紙で補強された表紙に被せている(題字の部分は後から布表紙に貼り付けるためにあらかじめ切り取っておく)。これがなかなか宜しい。どなたか私の私家本をお持ちの方、お暇の時にでも装丁してみては? 
 とうぜん装丁しながら拾い読みをして、自分で感心したり感動したり、これは何時ものエゴラトリーアであり自己陶酔です。そんな中、インターネットに関して、むかし数人のお友だちとの間で伝言板を舞台に交わした素晴らしいやり取りが見つかった。中の一人はその後ネットから消えてしまったが、いつかまたコンタクトがあれば、と強く願っている。ともあれそのやり取りをそっくり皆さんにご紹介したい。少し長いものだが、お時間のあるときにでもどうぞお読みください、きっと何か得るところがあるはずです。


イリイチとインターネット

※今年(2003年)三月、「モノディアロゴス」でイリイチとインターネットについて書き、友人たちに意見を求めたことがある。さっそくそれぞれの立場からの意見が寄せられ、改めてインターネットの威力というか効用性を実体験することができた。「伝言板」にそのまま埋没させておくに忍びなく、ここにあの時のままの形で収録することにした。

モノディアロゴス 二〇〇三年三月五日 「共に愉快に生きる」

 読みたいと思いながら読みそびれていた本をネット古本屋で簡単に見つけられるのは本当にありがたい。そんな一冊として読み始めた本の中で、次のような引用文にぶつかり文字通り震撼させられた。
 「すぐれた教育制度は三つの目的をもつべきである。第一は、誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること、第二は自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること、第三は公衆に問題提起をしようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやることである(後略)」。
 これを引用しているのは、『インターネットが変える世界』(古瀬幸広・廣瀬克哉著、岩波新書、一九九六年)であり、引用されているのは『脱学校の社会』(I. イリイチ著、東京創元社、一九七七年)である。
 実はこのところ、イリイチの思想に非常な興味を覚え、邦訳された彼の作品をできるだけ集めて読んでいたのであるが、『脱学校の社会』のその箇所(一四〇-一四一ページ)にはまだたどり着いていなかった。ともあれ、インターネットの可能性について日頃から漠然と感じていたことが見事に言い当てられていて、「目から鱗が落ちる」思いをしたのである。そう、これは従来の教育制度を根源から批判し超克した脱学校社会における教育の未来図であり、インターネットのあるべき方向性を大胆に予測した文章なのだ。
  今回、イリイチの思想の根幹にあるコンヴィヴィアリティ(自律共生)のための道具という考えに共鳴したハッカーたちがネットワークとパソコンを作り上げたことを初めて知った。七〇年代、クモの巣を意味するウェブという言葉を初めて大々的に使ったのもイリイチらしい。古瀬氏はコンヴィヴイアリティは、「いきいきと楽しみながらも、互いのことが目に入っているような節度のある楽しみ方」を意味するから、むしろ《共愉》と訳すべきだと言う。イリイチはもともとスペイン語の convivir(共に生きる)からの命名と言っているので、なるほど卓見である。
 そしてとうぜんこの《共愉》の理念はスペイン文化の根幹を成す《生》の理念に還流する。かくしてインターネットは、自分らしく生きるための道具となる。これは凄いことだ。

※ 以下「伝言板」でのやりとり

○幸いなる符合 テイボー 2003/03/05 (水)
 みなさん、今日のモノダイ、ぜひ読んでください。「共に生きること」と「インターネットをすること」とが、さらには「教育の新しいあり方」など今までごちゃごちゃしていたものが、ちょうど砂鉄の下に磁石を持っていったように、ピタッとある方向性を示し始めました。今はまだ漠然としていて説明が難しいのですが、これからじっくり攻めていきます。みなさんの考えも是非教えてください。

○共に愉快に生きる しげき 2003/03/06 (木)
 面白く読ませて頂きました。実は、昨日一度読んだんですが、よく意味がとれず・・・先ほど秘密兵器(?)の「縦読みソフト」で読んだらヨオークわかりました。全く、同感です。私も、それを期待して自分の「スペイン語勉強部屋」を開放しているわけで…

○新たな階級制度 ゆう  2003/03/07 (金)
 一昨日のモノダイ、拝読しました。毎回その日に拝読しているのですが、蕪雑にまぎれてコメントが遅くなりました。
 今日の「ウェブ」の語法がイリイチに遡るとのこと、不勉強で知りませんでした。イリイチが夢想した教育の理想にはわたしも大いに賛同しますし、その手段としてのインターネットの有効性も否定はしませんが、ネットが電気に全面的に依存しており、「パソコン=電気なければただのハコ」である側面も、これまた否めません。
 クリントン政権がいちはやく「情報ハイウェイ構想」を打ち出したのが、たしか九十二年だったと思います。その数年後に「情報格差」や「あらたな階級制度」が云々されはじめました。日本でさえ、インターネットの常時接続が普及しだしたのがこの二、三年。「全家庭に光ファイバーを」というNTTの計画は当初二〇〇五年が目標だったはずですが、二〇一〇年に延びています。イリイチの理想の具現化は、この「新たな階級制度」をどう解決するかにかかっていると愚考します。 

○共愉とネット えにしだ  2003/03/07 (金)
 テイボーさん、こんばんは。イリイチという思想家については、名前はよく見かけておりましたが、これまで読んだことがありません。ですから、イリイチが具体的にどのように思想を展開しているのかは知らないのですが、でも、コンヴィヴィアリティ(自律共生)という言葉は、魅力的なことばですね。インターネットが「共愉」の手段になりえたとしたら、すばらしいことだと私も思います。たしかにネットは、その可能性を豊かに持ち合わせているようです。それと同時に、その豊かな可能性はまた恐ろしい側面ももっていますよね。
 はじめて映画というメディアが登場したとき、バラージュや、ベンヤミンなど、幾人かの思想家たちは、映画がもつ可能性、とりわけその大衆に訴える威力に着目したそうですが、その威力は同時に、ナチスに利用されたりもしました。メディアはいつも、諸刃の剣なのですね。ネットのもつ強大な威力もまた、「共愉」への可能性を開くと同時に、その逆のものへと反転する可能性もあることでしょう。だからこそ、このメディアをいかに使いこなすかが、これから問われるのだと思います。
 インターネットが世界についての情報のあり方を変えてしまいつつあるのかもしれませんが、その変化を、今日の世界の枠組みを追認し、塗り固めるための道具としてのみ利用しようとしている人々もいるでしょうし、また実際にそんなふうに作用している側面もあることでしょう。けれども、ひょっとしたら、その情報のあり方の変化は、世界そのもの変化につながるのかもしれません……。
まだ、よくは分かりませんが(汗)

○ Re: 新たな階級制度 テイボー 2003/03/08 (土)
 なるほどね、新しい階級の出現ですか。確かに新車なみに次々と新製品がモデルチェンジされ、金があり機械操作が上手な人の手に情報がまたまた集中していく、というのは避けられないでしょうね。そして暴走族やレディース(?)のように、限られた仲間意識に結ばれた人たちの集団が形成され、仲間内の他愛もない交流が果てもなく続き、それでいてその輪から外れることを恐怖する人間たちの増殖に向かう危険も今のところ大ですね。
 先輩や友人たちの大部分はたぶんこれからもパソコンに近づくことはないでしょう。だからときどき本当は自分も彼らと同じ位置に留まるべきであったかも知れないと思うこともあります。しかし自信はないけれどいま新しく自分の前に開かれた世界の可能性に賭けたいという気持ちの方が強いです。だからコンピュータのいろいろな機能の発達もいいですが、インターネットの基本的な機能をもっと簡便に身につけられるような方法が考案されればいいなと思います。
 今のところ、まさに蜘蛛の巣のように、それぞれが暗闇の中で飛び込んでくる虫を狙っているというイメージが強く、本当の意味で開かれた明るい網になって欲しいなと思います。ともかく私にとって情報の交換より心と心の交流の方が重要だし面白いし、そこに希望を持っています。つまりたがいに適正な距離を保ちつつ、しかし内面世界が互いに対して開かれていくそのようなインターネットの使い方が広まっていって欲しいと思います。たとえばサンタ・テレサのように、新世界の自然史以上に豊かな内面世界の発見とその表現、あるいはウナムーノのようにほとんど内部の調べが露出しているような文章が行き交う世界になってほしいな、と思います。
 正直言って、私自身もそうですが、インターネットの世界が成熟するにはまだまだ時間がかかりそうですね。かつて私がゆうさんの先生であったこともありましたが(懐かしいですね)、この世界ではゆうさんの方がはるかに先輩です。これからもいろいろと教えてください。インターネット時代の新しい教育・学問のあり方をこれからも一緒に考えていきましょうよ。

○ コンヴィヴィアリティ しげき 2003/03/08 (土)
 ネットがネットとして成長して行くに、必須の要素だと思います。
 可成り前のTVで、「田舎にいてもネットがあるから論文が書ける」というような内容のCMがありました。ネットで世界中の情報が即時に入手できる、というものでした。
 確かに、その通りで、特にADSLなどBBが普及してきた現在、益々その効用が顕著で、殆ど毎日その恩恵に浴しています。.
 しかし、一方で、自律のない人からの迷惑なメールやBBSへの書き込みに悩まされます。「私は翻訳ボランティアじゃない!」と、叫びたくなることもあります。
 「ネットの普及」と「自律共生」とは、X軸とY軸のように違ったディメンションではないでしょうか。
 皆さんの論議から少しはずれたみたいで・・・

○Re^2: 新たな階級制度 ゆう 2003/03/08 (土)
 テイボーさんに「先輩」などと呼ばれると、恐れ多くてどうしてよいのやら困ってしまいます。
 新しい階級という話で申し上げたかったのは、決して安価とはいえないパソコンの凄まじい開発ラッシュに手が出せない低所得者層の存在もさることながら、より根本的なところで、電気が満足に通っていない地域が世界にはまだまだ多いということです。スペイン語圏でも、たとえばボリビアのある地域では電気が通う時間が限られていると聞いています。ただ、この情報を知ったのもネットのおかげでして、「もうすぐ電気が止まります」と、ある掲示板に書き込みがあったのです。私事で恐縮ですが、三年前に入院したとき、福岡のすぐれた精神病院を見つけたのもネットのおかげでした。
 二月十五日の世界的な反戦デモ。今月三日のアリストパネス反戦喜劇『女の平和』の世界同時上演(五十九カ国で千を超える公演)。そして数日前の世界的な学生デモ。いずれもネットで呼びかけて実現したものです。自律共生の好例でしょう。
 自律共生への共感を覚える者のひとりとしてわたしが注目しているのは、視覚障害者とのコミュニケーションです。ウェブページのテキストを声で伝えてくれる音声読み上げソフトというものが普及しつつあるのですが、htmlのスクリプトによってはソフトが誤読してしまうということを去年知りました。そこで、今年元旦にサイトをリニューアルしたとき、市販の制作ソフトは使わず、タグを直接書くことにしました。たとえば、本来はある文献からの引用を意味する〈blockquote〉というタグが、余白を大きくするインデント機能として用いられるのをよく目にします。すると読み上げソフトは〈blockquote〉で囲まれた部分を引用として解釈してしまうそうです。あるいは画像にハイパーリンクをつける場合、alt属性にリンク先のページの説明を書いておかないと、リンク先がどんなページなのかわからず不便だそうです。こういうことに気づいたのはほんの数ヶ月前でして、まだまだ勉強中です。

○両刃の剣 Cafecriollo  2003/03/08 (土)
 教育と共棲、ネットについて、僕もつらつらと思うところを……
 イリイチはひところ、盛んに読まれていましたが(信州大学の山本哲士などが傾倒していました)、当時はまだコンピュータもネット環境も整っていなかったので、この両者の結びつきは忘れられていたところへ、最近になって再評価の動きが出てきたんですね。知りませんでした。もともと、現在のようなコンピュータ環境に踏み出すに当たって多大なる貢献をしたマッキントッシュ自体が、ヒッピーあがりの極めて反体制的な人々から生まれてきていることはテイボーさんも書いておられるとおりですし、ウィンドウズ以前のMS-DOSが汎用化したのは、IBMの情報が漏れてしまったのが発端だったはずです。インターネットの普及は、確かにクリントンの提唱がきっかけでしたが、このようにコンピュータ環境は体制と反体制、取締りと悪事、上と下、情報管理とハッキングの化かし合い……とでもいうか、そういうもので成り立っているのだろうと思います。理想的な共棲を可能にするには、個人ユーザーの倫理面での自立が必要だというのは、議論の余地はないと思います。こうした二面性を技術論のみで解決しようとすると、結局、ネット社会も暗澹たる警察社会になってしまうだけなのではないか、と……。
 教育との兼ね合いで言うと、限定された範囲でのネット利用ですが、たとえば早稲田大学がインターネット講座という授業を二〇〇一年度から開始しています。授業をネットで配信し、掲示板のテーマ別書き込みに参加することを出席代わりとし、レポートの提出もメールで行う、というものです。ロシア文学の井桁貞義さんという方をはじめ、幾人かが第二文学部で試行し、井桁氏はそれについての本も出されました(今、手元にないので、タイトルなどは失念しました)。安全確保のため、登録者のみがパスワードを受け取り、アクセスできるシステムですけど、単位認定のための「授業」という形を取らないなら、こうした発信・受信は可能なのではないかと考えています。僕が授業の情報などを可能な限り公開しようと考えているゆえんです。
 一方で、コンピュータとインターネットが整って生まれてくる思想というものもあるという事実がありますね。サイバネティクスやチョムスキーの生成文法理論がコンピュータ言語と密接に関係していることはよく言われますが、ドゥルーズ-ガタリの「リゾーム」の概念やアンテルテクストならぬハイパーテクストが云々されるのも明らかにウェブの発達に関連づけられます(「リゾーム」はそれ以前に提唱されたものではありますが)。理解するためにも(職業的観点から)教えるためにも、ネットと付き合いながら考えるということは必要ではないかと思います。そんなわけで、スペイン的な(生)の思想に接続しようというティボーさんの試みは、非常に興味深く思います。イリイチがメキシコに行ったように、ギリシャ‐アラビアがスペイン経由でヨーロッパに流入したように、ヒッピーたちにカルロス・カスタネーダが読まれたように、南からの生の奔流を捉えようとする動きは、深く共鳴するところです。その意味で最近僕が興味を抱いているのは、かつてチェ・ゲバラと共にボリビアに行ったレジス・ドブレの「メディオロジー」の概念です。勉強途上ですが。
 その一方で、「南」にはゆうさんご指摘の「新たな階級制度」がある(「南」では顕著だということです。もちろん、「北」にもあります)ことも事実で、ベネズエラなどは、まだまだコンピュータの普及率は低いですね。しかし、普及率が低いゆえに僕たちには思いがけない興味深い現象というものもあります。
 ベネズエラの例で言うと、日本にくらべてはるかにインターネットカフェが多い、ということです。かくしてインターネットは個人個人が個別に部屋の中でネット社会に繋がるだけでなく、新たな公共の場をも作っているのです。僕がたまに利用していたところなど、店中が和気藹々として、ユーザー同士の店内での交流もあったりして、新鮮な発見でした。
 「つらつら」と書いたおかげで、長くなりました。すみません。

○Re: 共愉とネット テイボー   2003/03/08 (土)
 えにしださん、しげきさん、ゆうさん、そしてCafecriolloさん、書き込みありがとう。自分が言い出しっぺなのに、途中からどんどん高度な議論になっていって、びっくりしました。そして皆さんが日ごろからインターネットの可能性についていろいろ考えておられるのだな、と感心しました。それで急いで皆さんのご意見をプリントアウトしました、ゆっくり考えるためです。
 それにしてもここで議論されたことは、私たちがいつも忘れずにいなければならない問題ですね。うまくいけば、学問や文学が大きく変わる可能性を秘めていますね。昔連句というものを経験したことがあり、そのとき人と人との交わりの中で発現する新しい表現の思いもよらぬ展開に感動したことがありますが、インターネットはそれ以上の新しさと可能性を秘めていると確信しています。たとえばこの「伝言板」でも、考えてみれば不思議な空間を作っていますものね。あれっ、おんな言葉になってきたぞ。

◆ともあれ、これからもいろんなことを考え話し合っていきたいですね。よろしくお願いします。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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