なんともおかしな騒動。例の高崎山自然動物園のサルの赤ちゃんの命名にまつわる滑稽な騒ぎのことである。こんな問題に求められもしないのにいちいち意見を述べる必要もないが、たまたま先日、今時の命名の仕方の浅薄なことを批判した手前、ひとことだけ。
入園者の投票で決まったようだが、一部市民からの反対意見、つまりイギリス王室に対して失礼でないか、との意見が殺到し、それに対して市長までが公式見解を述べなければならなくなった時点で、問題が新しい局面に入ったと言わなければならない。
ずばり言わせてもらうと、市長まで出てくるならもう少し味のある大人の裁定が欲しかった。「多くの方につけてもらった名前で、英国からの指摘(抗議)もないので、見直す必要はないと思う」と言ったらしい。「英国からの抗議もないので」が、まずおかしい。つまり市民レベルでの命名という段階では確かにイギリス側の大らかな対応が伝えられたが、しかし市長までが出てきての公式見解となると、下手をすると新たな展開が待ち受けているやも知れぬ、ということである。
たぶんこの段階になっても、イギリス王室から新たな態度表明は無いかも知れない。しかし当該者の反応次第でこちらの態度を決めることがそもそもおかしい。こういう姿勢の行政責任者は、ふだんからも、例えば一部市民からの反対を恐れて現憲法擁護の集会などに対して公的施設の使用を断ったりするのであろう。つまりきちんとした哲学、といったら大袈裟だが、要するにしっかりとした行政姿勢を持たず風見鶏のように現政権の顔色を窺がっているわけだ。
たとえばサルの赤ちゃんに皇室のどなたか、例えば愛子さんの名前をつけたらどうだったろう。おそらく右翼の街宣車が市庁舎を取り囲んだろう。
いや、もともとシャーロットを選んだ市民たちは愛子さんにちなんだ名前をつけようなどとはつゆ思わないのではないか。シャーロットという名前自体が可愛いからと言うなら、愛子という名前も(我が孫娘も愛だが)可愛いではないか。それをつけようと思わないで、イギリスの王女の名前をつけようという発想自体が、ちょっと軽いのだ。つまりシャーロットという名前はイギリス王室の歴史と伝統を充分考慮してつけられた名前であって、単に可愛いからとか響きがかっこいいからという「軽いノリ」でつけられてはいない、ということを考えた上でサルの赤ちゃんに選んだ名前なのか。どうもそうではなさそうである。先日も言ったように、特に最近、自分の子どもの名前のつけ方が非常に「軽い」ことが思い返される。いや若い親たちにすれば充分考えた末の命名だと言うかもしれない。しかしそれは週刊誌や婦人雑誌の範囲での取捨選択であって、一族の歴史や伝統、いやそれが古くさいというならせめて日本の伝統や文化を踏まえての命名であってほしい。
さて私が市長ならなんと言おう。私なら、先ずは今回の命名が決してイギリス王室を軽視してのものではなかったこと、しかしそうは言っても王女にちなんでサルの赤ちゃんをシャーロットとするのはやはり不適切であること、そして市民の善意を無下に退けたり、また同時にイギリス王室にも失礼に当たらないため、私・市長としてはシャーロットの愛称シェリーをサルの赤ちゃんの名前にしたいと考える。シェリーは日本の国花サクラを指すチェリーにも音が似ており、これによってイギリスと日本の末永き友好の象徴ともなるのではないかと愚考するものである、エヘン(これは照れ隠しの咳払い)。
なんだかアホらしくなってきた。この辺で止めておこう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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