私設図書館の勧め

昨日も一日、いろんな本を修理したり新たに装丁したりして過ごした。そんなことしてもいずれ本は腐り、もっと悪いことには誰も読まないかも知れないのに、なんともご苦労なこと、と思わないでもない。しかし生涯半径一キロ以内に住むことになった身にとって、差し当たってはこの陋屋が、そして何冊かは知らないが本たちが、我が牙城そしてその防壁であることは間違いない。ならばちょうど昆虫がおのが唾液(でしょうか?)で巣穴を塗り固めるように、本たちを蘇生させたり新たな装いを凝らしたりするのも、あながち奇矯な行為とは言えないではないか。
 だが本の整理、つまり類書を集めたりテーマ別に並べたりする方は一向に進捗していない。もしかすると今年いっぱいは取り掛かれないかも知れない。あと十年自由に身体を動かすことが出来るなら(二階との行き来がかなりきつくなってきたが)、なにもそう慌てることもあるまい。
 もちろん最終的な目標は、それら本もしくは本の集まりについてのチチェローネ(蔵書あるいは読書の案内)を書くことである。自分の専門の方に取り掛かるにはまだまだ時間がかかりそうなので、最初のテーマとして美子の数少ない蔵書についてまとめてみようかな、と考えている。すでに本棚の一隅に美子コーナーらしきものを作り始めた。中心になるのは卒論に使ったと思われる何冊かの T. S. エリオットの原書やら研究書である。(※彼女の卒論は呑空庵刊の『峠を越えて』巻末に収録されている。読みたい方はどうぞ)
 弥生書房の『エリオット選集』(全四巻)の別巻はあったが中央公論社の『エリオット全集』(全五巻)は一冊もなかった。両方とも美子の卒論執筆時には出ていたはずだが、英文での卒論には特に必要を認めずに購入しなかったのか。今だったら美子は揃えたいのではと考え、というより私自身いつか読みたいと思って、震災前、中央公論社の五冊全集をアマゾンから購入し、例のごとく背革で装丁した。すでに認知症が進んでいた美子の反応がどうであったかは記憶にないが、たぶん分からなくなっていたのではと思う。
 肝心の英文原書は詩と演劇のそれぞれの選集はあったが、これもなんとか全集を手に入れたいと思い、震災前のあるとき、アマゾンの洋書コーナーから『エリオット詩・演劇一巻本全集』(The Complete Poems and plays of T. S. Eliot, Faber and Faber, reprinted 1978)を購入した。
 自分で読むことが出来るかどうかさえ分からないのに、さては奇妙な蒐集癖に取り付かれたかなと思われるかも知れないが、しかしそうした心の動きの底には一種の罪滅ぼしの意識が働いていたことは間違いない。
 そう、あれは保谷に住んでいたころのことである。そのころ福島の両親を引き取ったこともあって共稼ぎが必要となり、そのため彼女は用賀の清泉インターナショナル・スクールの司書の仕事を始めた。幼い双子の子育て、朝早くから西武新宿線の満員電車に揺られて(あるときは痴漢に遭ったりして)の通勤というハードな生活に疲れたのだろう、ある晩、何のことがきっかけかは記憶に無いが、彼女、二階の窓から研究社の分厚い大英和辞典を引きちぎり引きちぎりして夜の中庭に投げ捨てたことがあった。
 「私だって専門の勉強をしたかった!」とつぶやいていたと思う。高校時代は英語弁論大会で東北一になったり、高松宮、三笠宮杯全国大会では惜しくも三位、青山に進んでからは英語演劇で主役を張り、アメリカ留学も願っていたが一人娘との理由で両親からは許されず、福島の実家に戻って母校桜の聖母の英語教員になった。そして当時は職のなかった私と結婚、両方の親元に半年ずつ同居したあと二人の幼子をそれぞれ胸に抱いて上京……
 彼女とて事情が許せば好きな英文学をさらに勉強したかったのであろう。めったに夫婦喧嘩もしないし不満を託つこともしなかった彼女だが、心の奥底にあった悲願が、あの夜そんな形で吐き出されたのかも知れない。破り捨てられた辞書は拾い集めて(私が? たぶん)長らく見せしめ(?)のため取っておいたが、そのあと時効が来て(?)新しい辞書を買ってやった。
 そんな彼女への罪滅ぼしの気持を認知症になってから時おり感じるようになった。もっとも彼女自身は、認知症になる前からそうした過去の願望を思い返すこともなく、もっぱら彼女の愛読書は松本清張などの推理小説、次いで森茉莉や武田百合子さんへと移っていったが。特に百合子さんは島尾敏雄を偲ぶ会でお会いしてから大好きな作家となった。これら作家たちの本も美子コーナーに集めてやろう。
 以下蛇足までに。これも昨日のことだが、本棚の隅に『家庭の本 蔵書の整理と手入れ(Los libros de casa Formación y cuidado de una biblioteca)』という150ページほどの小冊子が見つかった。これは読書週間(書籍市)にスペイン文化省の肝いり、そして書店組合の監修で無料で配られたものらしい。日本の文科省はこんな粋な取り計らいをしたことがあっただろうか。
 ついでに言うと、いま日本の家庭からどんどん本が消えている。古本屋に売るならまだしも、多くは新聞紙などと一緒に紙ゴミの日に捨てられている。
 でも爺さんなり婆さんが読んだ本を捨てちゃったーはまずいっしょ。我が家には本好きだった幾太郎爺さんの愛読書が数十冊残されている。あの特有な装丁の岩波の『漱石全集』の何冊か、そして健次郎叔父の名祖(なおや=eponym)たる徳富健次郎の『思出の記』などである。後者は東京民友社発行、明治三十七年十八版のもの。
 もちろん古本屋に高額で売るつもりなどないから、厚紙で表紙を補強し、それに茶色の布を貼って見栄えを良くした。巻末の空いた場所に「二〇一一年八月、健次郎叔父がこれまで保管していた数十冊の、故幾太郎の蔵書を、十和田の淳の処に運ぶ。その月末に今度は淳が原町に運ぶ」と私の字で書かれている。
 こうして四世代にわたる一族の歴史が目に見え、手で触れることの出来る形で引き継がれていく。ひらひらと手を右や左に動かしてページをめくるあの電字本(と言うのでしょうか。正式名称など覚える気もありませんが)では決して出来ない肌と肌の触れ合った本の伝承です。
 それから本の整理をしていて気付くことは、それがいつどこで購入されたものか本の片隅にでも書いておかないと、後ですっかり忘れてしまうということ。これも本を次世代に申し送るためには必要なことである。なに? 古本屋に売るとき安く買い叩かれるですって? あなたここまで読んできてもまだ本を売るつもり? そうか、そういう人がいなきゃ、私がアマゾンから安く買うこともできないか。でも世は次々と捨てていく時代だから、私のように本は売らない、ていねいに扱って次世代に譲り渡すという人がいても大勢は変わらない、つまり相変わらずアマゾンの商売は成り立つ。心配することはない。
 皆さんも今日から家にある本を大切に扱って、出来ればわが「貞房文庫」のように私設図書館(実質はせいぜいコーナーであっても)を作り始めては? 我が家の歴史を伝える格好の方法です。


【息子追記(2021年2月16日)】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する。

エリオットのいい読者ではありませんが、フェイバーから出ているエリオットの著作は学生時代からだいたい全部買い集めていました。訳書もばらばらに持っています。愛読しているというわけではないのに、いつも気になっていて、年に数回はエッセイや詩を読みます。この詩人批評家のわたしにとっての重要さは、なんといっても古代神話研究の現代的な意味を明らかにしようとしたことで、フレイザーやリヴァースの人類学に依拠しながら、ジョイス文学の画期的な序文を書いたことにあります。ウナムーノやオルテガを踏まえた佐々木先生のご意見などうかがいたいと思っていました。というのも、わたしの恩師がエリオットに造詣が深かったと同時に、ウナムーノ、オルテガを深く読んでおられて、大学院の演習ではエリオットとオルテガが講義のなかで言及されるのが常だったからです。英語圏文学の研究者にして、スペイン語圏哲学を自家薬籠中のものとしながら語った人は、わたしの知るかぎり世界に恩師の橘教授一人だけでした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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私設図書館の勧め への2件のフィードバック

  1. 上出勝 のコメント:

    佐々木先生

    私の本棚に彌生書房の『エリオット選集」があります。と言っても、1巻と4巻だけなんですけど。神田で端本だけ買いました。
    それほどエリオットに関心があったわけではないのですが、確か大江健三郎のエッセイに深瀬基寛訳の『荒地』が引用されていて、それがすばらしく買いに行ったという記憶です。
    だいぶ前のことで、買ったきり「積ん読」になっていましたが、先生のブログを読んで思い出し、あちこち拾い読みしました。

    翻訳者が豪華ですね。
    吉田健一、平井正穂、鮎川信夫、中村真一郎、安東次男、田村隆一、丸谷才一、篠田一士、高松雄一、永川玲二、西川正身等々。
    根村絢子と言う人が『劇詩についての対話』というのを訳していますが、この方は丸谷さんの奥さんです。
    月報も豪華で、小林秀雄、山本健吉が書いています。

    『荒地』と『伝統と個人』くらいしか知りませんでしたが、今回『河馬』という題のおもしろい詩を見つけました。一部引用させて下さい。
    訳は安東次男です。

    河馬(ヒポウポタマス)

    背中の広い河馬が
    泥のなかで腹ばいに寝そべっている。
    あんなに頑強に見えるが
    なんのことはない肉と血のかたまりだ。

    肉と血は脆くて弱い、
    神経の衝撃(ショック)に耐えられない。
    ところが由緒の正しい教会は
    けっして亡びない、岩の上に建てられているから。

    餌をあさるヒポウのたよりない足は
    踏みはずすことがあるが、
    由緒のある教会は
    居ながらにして配当蒐めだ。
    (中略)
    私はポタマスに羽根が生え
    潤ったサヴァナから天翔り、
    合唱する天使たちが彼のまわりで
    朗々たるホウザナで神の賛歌(ほめうた)をうたうのを見た。

    小羊の血にきよめられ
    天使の腕にいだかれて、
    聖人の列に加えられた彼が
    ハープを奏でる姿が見られるだろう。

    雪のように白く洗われ、
    居並ぶ殉難の処女(おとめ)たちに接吻されよう、
    ところが一方、由緒の正しい教会は
    古い腐敗の霧につつまれて下界に頑張っている。

    この「教会」を私は現代のマスコミを含む「由緒正しい」アベ的エスタブリッシュメントの象徴のように受け取りました。つい最近も自民党の馬鹿議員がとんでもない発言をして騒ぎになっていますが、「馬鹿」には「河馬」で対抗するしかないかなと思いますね。
    私はまさしく「血と肉のかたまり」でしかありません。しかも高血圧。。。「たよりない足」しかなく、踏みはずしてばかりですが、
    「マルスの唄」(石川淳)の中、河馬もいつかハープを奏でよう。。。

    先生のおかげと言うか、奥様のおかげと言うか、このブログを読まなかったら『エリオット選集』はまだまだ積ん読状態のままだったかも知れません。『河馬』を知っただけで今日一日トクした気分です。
    ありがとうございました。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    上出さんのコメント見て、迷っていた注文、いまさっき実行しました。実は彌生書房の五巻本、板橋の「みず玉書店」という可愛らしい名前の古書店からなんと1800円で売りに出されていたのですが、中公の全集もあることだから、と思い留まっていました。しかし安東次男の河馬の翻訳を見て、これは買わなくちゃ、と思った次第。中公の全集では御大・深瀬基寛訳なのです。古書の方は「裸本。赤鉛筆ライン少有。記名有。月報欠。全体的に日焼・経年の汚れ有」の但し書きが入ってますが、なに汚くてもどうせ装丁し直すので気になりません。なにせ1800円です。となると別巻が余りますが、よろしかったら差し上げます。

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