渡辺一夫と大江健三郎

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介護・家事の合間を縫って、というより本の修理・装丁の合間に介護・家事をこなしながらの生活がまだ続いている。時おり本棚の隅から懐かしい本が顔を出して、その度にその本に関連する他の本を探してきたり、それにまつわる思い出を愉しんだりしている。
 僅かな数の蔵書のはずだが、こんな調子だと、いつ整理が終わるか見当もつかない。つい先ほども、他の本の後ろから渡辺一夫関連の本数冊を見つけ出してきた。そのうちの一冊は大江健三郎の『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』(岩波書店、1984年)で、それをぱらぱらめくっていると、先日どこかにあるはずと書いた例のものが挟まっていた。渡辺一夫さんからいただいたはがきである。ただし宛名はエバンヘリスタ先生、佐々木孝先生(当時わたしはただの哲学生なのに)と連名に、そして住所は練馬区上石神井X-Y、上智大学イエズス会神学院となっている。
 予想通り1966年にエバンヘリスタ神父と共訳で出した『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』(桂書房)を献呈した時のお礼状である。肉筆の文面は以下の通り。

「御高著御恵贈賜りありがとう存じました。目下病臥中ながら拝読させていただいて居ります。きびしい魂の遍歴には、心撃たれるものがございます。小生の名まで御引用下さり、ただただ恐縮いたしております。右御礼まで。
文京区元駒込A-B-C  渡辺一夫

二伸 御礼申し上げるのが遅れ、(二字ほど判読できず)申しわけなかったと思います。お赦し下さい。」

 文中「名まで御引用」とあるのは、「あとがき」で氏の『三つの道』(朝日新聞社、1957年)の「イグナチオは初めから、宗教改革運動を意識して行動したとは思われません。事実として存在したカトリックの教会制度の硬化腐敗に目をつけていたとも考えられない」という文章を引用紹介させてもらったことを指している。
 1901年のお生まれだから、このときはまだ65歳、それから約十年後の1975年74歳で亡くなられたわけだ。
 この本と一緒に見つかった『文学に興味を持つ若い友人へ』(彌生書房、1995年)の中の「僕の書斎にある洋書」を読んでいるとこんな文章が出てきた。

「…書棚を整理しながら、まだ頁の切ってない本にずいぶん出会う。何か大切な友人を今までほったらかしにしておいたような気持になり、思わず、ナイフで頁を切って読み始めることが多い。こんな本が一度に二三冊あると、その日の整理は停滞してしまう。しかし、その為に、書庫の中での数時間は、限りなく楽しくもなる。
あと何年この世に生きられるものか全く判らぬし、いついかなる時に、天変地異(戦争もその一つかもしれぬが)が僕を見舞うかもしれぬ。その時がくるまで、僕は、書庫のなかで暮らすであろう。この頃の寒風に泣く人々、悪制度政治に苦しむ人々のいる浮世を片時も忘れたくないが、ただ、僕は、僕としての条件と分限のなかで、僕に与えられた仕事、大げさに言えば、使命をも果たさねばならぬと思うだけである。明日は、何冊ぐらい整理ができるかしら?(dec.1954)」

 まさに現在の私と同じ心境を語っている。ただ大きく違うのは、そのときの彼は私より二十二歳も若いということ、そして私の方は実際に天変地異、つまり大震災と原発事故に遭遇したということか。ただ同じなのは、当時も今も悪政に苦しむ多くの人々がいることであろう。
 本当は大江健三郎の亡き恩師への切々たる追慕と感謝の念に裏打ちされた渡辺一夫論を紹介するつもりだったが、つい現在の我が生活の処し方に引き寄せて書いてしまった。渡辺一夫論についてはまた別の機会にするとして、大江健三郎という作家自身についてちょっとだけ触れておきたい。簡単に言えば私にとって氏は長年気になる作家の筆頭であったということである。彼の出した本はその都度たいていは買い揃えてきた。そういう現代作家は、島尾敏雄、埴谷雄高、小川国夫、真鍋呉夫(いずれも鬼籍に入られた方ばかりになってしまったが)など数人いるが、その方々の作品はほとんど全部読んできたのに、大江健三郎の場合は、揃えただけでほとんど読んでいないという違いがある。
 つまり作家・大江健三郎というより人間・大江健三郎が気になっている、と言えば氏に対して失礼かも知れないが、事実、彼の作品自体より彼の生き方、そして時おりの、とりわけ政治的な発言に強い共感を覚えてきたのである。
 しかしそうした彼の戦後民主主義への終始変わらぬ信念の根っこにあるのは、息子の光さんと彼のこれまでの生き方が一つ、そしてもう一つは恩師・渡辺一夫に対する彼の一貫して変わらぬ師弟愛である。つまり彼の政治的な信念は、イデオロギーというよりもはるかに深い人間理解に支えられていることへの強い共感に由来する。
 そしてこれは半分冗談であるが、彼も私も同じ名前を有するから。大江は中国語で確かターチャン(語尾が上がる)と発音されると思うが、私も昔から愛称ターチャン(語頭にアクセント)だから。健次郎叔父も、よっちゃんも、今でも会うと私をターチャンと呼ぶ。実はばっぱさんも、最後のあたり、昔に戻ってタカシではなくターチャンと呼び始めていた。
 さてここまで、以上の文章を、今日同じく本棚の側のボール箱に入っていた、ばっぱさんのカセット愛唱歌集を聞きながら書いてきた。全二〇巻の『昭和の流行歌』と題したシリーズ物の最後の巻である。ちなみにこの第十二巻目に収録された全二〇曲のタイトルをご紹介しよう。

  • SIDE A(古城、川は流れる、下町の太陽、長崎の女、東京の灯よいつまでも、夜明けのうた、まつのき小唄、さよならはダンスの後に、唐獅子牡丹)
  • SIDE B(銀色の道、虹色の湖、恋の季節、白いブランコ、希望、絹の靴下、四季の歌、青葉城恋唄、夢芝居、女の駅)

 これら懐かしい歌を聞きながら、なぜか胸が熱くなってきた。そう、古い奴だとお思いでしょうが、私ゃ骨の髄まで戦後昭和の男でござんす。急に飛躍するようですが、こんな懐かしい平和なニッポンをまたもや戦争の出来る国にしちゃっちゃ先輩たちに申し訳がたちません。安保法案とやらは必ず廃案にしなきゃなりません。唐突ですが今晩はこれまで。お休みなさい。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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