先日、方言というより家庭内隠語とも言うべき「あんにゃげーだ」を紹介した。それで思い出したのだが、もう一つ我が家で昔はやった言葉がある。先の言葉がおそらくは小高町岡田集落から自然と伝わってきたのとは違って、自信はないが今度のはもしかすると中学生の私自身が発信源ではなかったか、と思われる言葉である。「無理すんなー。無理して死んだ人あっからなー」。爾来、どのようなときにも無理はしないことを基本方針(?)として生きてきた。だから鈴木宗男みたいにいつも無理ばかりしている人を見ると、本能的に嫌悪感がこみ上げてきて、「ばっかじゃなかろか」とつぶやく。あの初選挙の時の宗男ちゃん、明らかにムリしているよね。
ムリはしないけれど、生きている以上時にはままならぬ事態に巻き込まれる。そんなとき、呪文のように唱えてきた別の言葉もある。韓国の革命詩人キム・ジハ(金芝河)が三島由紀夫自刃に抗議して書いた「アジュッカリ神風」という詩の冒頭の言葉と同じである。彼のいい読者ではないが、この言葉を見つけたとき、彼の詩の核心に触れたような気になった。すなわち「どうってこたあねえ」。
別に特に「醒めている」というわけではない。ときに人が「ひたむきに」生きることは美しいとさえ思う。でも世の中、実はどうでもいいことに本気になりすぎだ。実業の世界なら、たとえば保険の勧誘員なら、自分の努力の成果が棒グラフなどに、まことえげつない形で出てしまう。それに比べれば、虚業といったら少し言い過ぎだが、時に実体を伴わぬ言葉が一人歩きしてしまう教育界では、どうでもいいことに本気になりすぎることがままある。ままある?いやー、しょっちゅうでしょう。たとえばある大学のある日の教授会で、成績表記はアルファベットにすべきか点数にすべきかで、延々何時間も白熱した(?)議論が続いたそうな。点数表記派の教授がその理由をのたもうた。「だってせっかく苦労して出した点数じゃないですか」
成績をつけたりそれを保管することがどうでもいいことだ、などと言うつもりはない。言いたいのは、教育というのは、たとえば学ぶ者が教える者の言葉や態度に触発されて何か新しい真実に目を開くとき(その逆もまた可なり)、その両者の間にはじめて成立する価値の世界であり、それ以上でもそれ以下でもないということである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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