どうってこたあねえ

先日、方言というより家庭内隠語とも言うべき「あんにゃげーだ」を紹介した。それで思い出したのだが、もう一つ我が家で昔はやった言葉がある。先の言葉がおそらくは小高町岡田集落から自然と伝わってきたのとは違って、自信はないが今度のはもしかすると中学生の私自身が発信源ではなかったか、と思われる言葉である。「無理すんなー。無理して死んだ人あっからなー」。爾来、どのようなときにも無理はしないことを基本方針(?)として生きてきた。だから鈴木宗男みたいにいつも無理ばかりしている人を見ると、本能的に嫌悪感がこみ上げてきて、「ばっかじゃなかろか」とつぶやく。あの初選挙の時の宗男ちゃん、明らかにムリしているよね。
 ムリはしないけれど、生きている以上時にはままならぬ事態に巻き込まれる。そんなとき、呪文のように唱えてきた別の言葉もある。韓国の革命詩人キム・ジハ(金芝河)が三島由紀夫自刃に抗議して書いた「アジュッカリ神風」という詩の冒頭の言葉と同じである。彼のいい読者ではないが、この言葉を見つけたとき、彼の詩の核心に触れたような気になった。すなわち「どうってこたあねえ」。
 別に特に「醒めている」というわけではない。ときに人が「ひたむきに」生きることは美しいとさえ思う。でも世の中、実はどうでもいいことに本気になりすぎだ。実業の世界なら、たとえば保険の勧誘員なら、自分の努力の成果が棒グラフなどに、まことえげつない形で出てしまう。それに比べれば、虚業といったら少し言い過ぎだが、時に実体を伴わぬ言葉が一人歩きしてしまう教育界では、どうでもいいことに本気になりすぎることがままある。ままある?いやー、しょっちゅうでしょう。たとえばある大学のある日の教授会で、成績表記はアルファベットにすべきか点数にすべきかで、延々何時間も白熱した(?)議論が続いたそうな。点数表記派の教授がその理由をのたもうた。「だってせっかく苦労して出した点数じゃないですか」
 成績をつけたりそれを保管することがどうでもいいことだ、などと言うつもりはない。言いたいのは、教育というのは、たとえば学ぶ者が教える者の言葉や態度に触発されて何か新しい真実に目を開くとき(その逆もまた可なり)、その両者の間にはじめて成立する価値の世界であり、それ以上でもそれ以下でもないということである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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