いま私たち夫婦が住みついているのは、約四十年ほど前に母が建てた古い方の棟である。自分はもう隠居するから、お前たちが新しい方に住め、という母の誘いには乗らずに(乗らなくて正解だった、引退なんてとんでもない、数日後に九十歳になるというのに、毎日フィクサーよろしく飛び歩いている)、なぜか初めから古い方に住もうと決めていた(動物連れであることの気兼ねもあった)。移り住んですぐ、二階部分で新棟(この方も十年前にやはり母が建て増しした)と繋ぐ工事をしてもらったが(一階部分は既に繋がっていた)、そのついでに、天井板があまりに汚いのでその一部を張替えてもらった。その時天井板を剥がれて四十年ぶりに姿を見せた屋根裏のあまりの粗末さにショックを受けた。当時としてもかなりの安普請だったのではなかろうか。
考えてみれば、たぶん蓄えもないまま中学校教員の給料だけで建てたわけだから、経費的にかなりの無理があったはずだ。というのは、押入れの奥から出てきた埃まみれのボール箱(昔は段ボールなどあったのだろうか)の中から、旧友の手紙やはがき数十通と一緒に、北海道に住む母方の叔父や叔母から、大学の学費を払うのが苦しくても退学するのはもう少し考えたほうがいい、などという趣旨の手紙が数通出てきたからである。すっかり忘れていた。家を建てたはよかったが、支払いの方がうまくいかずに、そんな退学の話が持ち上がったのだろうか。
実はそれらの手紙は机脇の書棚に今もゴムバンドで縛られたままである。母方の叔父たちの中でもいちばん好きだったS叔父(それから数年後に病死)のかなり長文の手紙や、叔父たちの中では比較的疎遠であったY叔母からの手紙など、そのうち時間をかけてゆっくり読んでみようと思っているからである…それに思いもかけぬ手紙が数通出てきた。発信人は二歳上の姉で、そのころ持ち上がった彼女の結婚話のことや…いやー、それだけならいいのだが、すっかり忘れていた恥多き青春の一ページに不意打ちを食らったのだ。その頃泊りがけで遊びに来た彼女の友だちに一目ぼれした愚弟の、中を取り持ってくれとの依頼に困り果てた内容の姉の手紙が出てきたのだ…狼狽したわけではない、恥ずかしくてその間の事情を思い出す勇気がまだ出てこないだけだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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