ほんの数日前まで、あゝ東北の夏は短いな、もう少しで秋風が吹くのかな、などとちょっぴり感傷的な気持ちになっていたが、とんでもない。いま町は狂ったような熱波の中にある。家のバッパさんが熱中症になったのも当然かも知れない。東京のHA女史が、最近亡くなられた父君もかつて熱中症で危うく行き倒れになるところだったという思い出をメールしてくださった。地元の新聞「福島民報」の「あぶくま抄」(「天声人語」のようなコラム)でも老人の熱中症に触れている。ここよりはるかに暑いはずの八王子でさえ熱中症のことなど意識すらしなかったのに。
でも暦の上でもうすぐ秋であることもまた間違いない。縁側の片隅の日だまり、畳の上に落ちる障子越しの木漏れ日、この家でおそらく何回も経験したであろう初秋の凛とした空気を、この暑さの中で、単に想像上だけでなく感覚的にも先取りすることができる。これが歳をとるということなのかも知れない。体のなかに堆積する何層もの季節の感覚が、ふとした瞬間、たとえばかび臭い便所の中で磨りガラス越しに葉擦れの音を聞くとき、現実目の前の風景を押しのけて実感できるのである。しかしそんなことを言い出せば、私の季節感の基層は、少年時代を過ごした十勝のそれであろう。以来、相馬、東京、広島、静岡、八王子といくつもの土地を渡り歩いたが、季節感についてはいつも「はぐらかされている」という感じが拭えない。でも残された日々、この相馬での季節の移り変わりをゆっくり味わっていこうと思う。だから、この思いもかけぬ熱波に対しても体の方で嫌がるということはない。
隣家との境にある青桐の葉っぱを全部切り落とさないでよかった。強い西陽がわずか残った青桐の葉でいくぶんか弱められて二階の縁側に届く。その向こうには、暗紫色に沈む遠い山並み(いちばん高い尾根が国見山)、そしていくらか弱まった余光の中に黄金色に染め上げられた木々や家々の甍が連なる。実に夏日らしい一日の最後を飾る光のページェントである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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