「家のじいーちゃんにも言ってるけんちょも、二人でいる時は世帯主だからなんぼ威張ってもいいけど、息子たちの前では威張んなよーって。体も効かなくなってくんだし、言われっこと聞いてた方がずっと楽だべー」
「んだんだ、Sさんは、ほれ今まで一人暮しが長がったから無理もねーけんちょも、息子さんの言うこと聞いてたほうがいーべ」
バッパさんがいよいよ明日退院ということになって、同室のばあさんや少し若い嫁さんたちがいろいろバッパさんに忠告している。この病院でも彼女は終始わが道を行っていた。九十四歳の師範学校の先輩が入院してきたといっては、しきりに彼女の個室を訪ねたこともその一つ。そのことを注意すると、なーにあそこにある冷蔵庫を使わしてもらうためだ、と言い訳する。日頃から塩分の濃いものを好んでいるので、病院の食事がまずい、ついては梅干と茄子の漬物を持ってこい、と言う。持ってきてもいいけど、塩分が制限されている患者さんもいるのだから、絶対人には勧めるなと言ったのだが、どうも配ったらしい。不良患者として追い出されない前に退院した方がいい。
「いやーすみません。いろいろ御迷惑をかけたと思います。明日退院なので、いろいろまた最後の特訓お願いします。うちのバッパさん、塩分控えめ、ついでにお口も控えめにしてもらわないと…」
「あーはっはーっ」、ここで同室の五人が大声で笑って同意する。
「んだなー、なんぼ口で言っても分かんねから、ほんじゃー紙にでも書いて渡すべー」
「あっはっはーっ」ここでまたひとしきり笑いの渦。九十歳のバッパさん、これで少し面目をつぶしたか少し神妙な顔をしている。
主治医にも言われたらしい、この歳で体を鍛えるなどと考えないように、それでなくても骨など磨り減っているのだから、体をいたわる気持ちになりなさい、と。早起きして、かなり遠くにある公園に体操に出かけ、その帰りに朝風呂を浴びる、それも行き帰りを自転車で、などはもう止めにしなければ。
帰ろうとすると、窓から見える山の景色が素晴らしいから明日使い捨てのカメラ持ってこい、と言う。確かに町並みの向こうに見える山の稜線は素晴らしい。しかしましなものを撮るとなると望遠レンズが必要だ。それに山だけでなく、同室の皆の写真も撮るとなれば、中には病人姿など写されたくない、という人がきっといる。そうだ持ってくるのを忘れたことにしよう。(8/21)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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