今まで見た映画のうちで好きなものを五本挙げよ、と言われれば、キャロル・リード監督の『第三の男』は絶対に入れたい。この映画には構図がピタッと決まっていて強烈な印象を残すいわゆる名場面がいくつもあるからだ。しかし構図的にも素晴らしいが、同時にそこで語られる言葉自体が強烈な印象を残すシーンもある。その一つが、現在もウイーンに残っているらしいが、あの有名な観覧車のシーン、アメリカから訪ねてきた親友の前に初めて「第三の男」が姿を現す場面である。
第三の男が闇で捌いた粗悪なペニシリンによってどれだけの人間が被害を蒙ったかと難詰する主人公に、高い観覧車から下を見ながら彼が言う言葉がそれである。正確には覚えていないが、概ね次のようなことを言ったと思う。下を見てみろ、人間など蟻んこよりも小さい。大きな石を落として誰かの頭をかち割っても、ここからではどうってこともなさそうに思える。つまり視点が違えば、世の中の人が大騒ぎすることも気にするようなことでなくなる。確かにそうだ。つい最近も、アフガニスタンで爆撃に加わった善良なアメリカ人兵士も、テレビゲームのようなコンピュータ画面で標的を定めるとき、この第三の男と同じ視点に立っていたはずだ。もしもその標的の中に、自分と同じ人間、その人なりの悲しみや喜びをいっぱい抱えた、血の通う人間を意識したとしたら、とてもじゃないが爆弾降下のボタンなど押せないであろう。
第三の男の言うことにも確かに一理ある。つまりそれぞれの視点はそれぞれの理由と理屈を持っていて、どれが正しい、どれが正しくないと一概には言えないからである。つまり絶対者でない以上、百パーセント正しい視点など人間には許されていないのである。
しかしである。こと人間に関わる視点が、他のものを対象とするときと決定的に違うところがある。それはつまり人間に対しては「等身大」の視点しかないということだ。人間はたとえば標的のように「もの」として対象化できない。歴史を通じて臆面もなく続けられてきた、そして今も続けられている人間の人間に対するあらゆる不正は、まさに視点の錯誤、パースペクティブの誤りからくる。他者を等身大で見るためには、同じ平土間に立たなければならない。時にそれはまどろっこしく、また理解の届かぬところが常に残る。しかしこの視点からしか正しい他者理解の道が開かれないと覚悟すべきだ。
(9/9)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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