滞っていた本の整理が、涼しさ到来とともにまた少しずつ動きだした。でも本の山を見るたびに、いつもため息とともに思うのは、死ぬまでここにある本のうち何冊読めるだろうか、ということである。昔あるところで知り合ったある老教授は、ぼくはもう専門書など買わないよ、と言い、読むのは、いや見るのは、外国旅行の際にひそかに篋底に隠して持ち込んだらしい北欧ポルノ雑誌だった。こういう晩年は死んでも迎えたくない、とその時は思ったが、その時の老教授の年齢に近づいてみると、彼の言ったこと (やったことではない) の意味が分からぬでもない。
確かマルタン・デュ・ガールも言っていたと思うが、人生において広げることよりも限定することの方が難しいし、時にはもっと大切である。優等生風に言うなら、広げることと限ることのバランスをとること、となろうが、これがなかなか難しい。いつも話のネタがなくなると登場させるバッパさんは、反省とか学習とは無縁の人で、おそらくは死ぬまで好奇心旺盛で、一切の迷いもなしに突っ走るであろう。悔しいけれど、あれはあれで天晴れというしかないか。で、こんな親を持った子の因果か、つまりこういう生き方は絶対したくない、と固く心に誓ったためか (その記憶もないが)、私自身は既に45歳ごろから、つまり勤め先を変えて静岡移住を決めたころから、後ろ向きに人生の意味を問う視点が徐々に形成され始めた。
思い起こせば、ずいぶん昔から、ひょっとして物心がつき始めて以来、いまいるところは本来自分がいる場所ではないのでは、という強迫観念じみたものに捉えられていた。大なり小なり、人は動物のように自分自身に自足できない存在である。もし天命というものがあるとして、人は必ずその天命からずれて生きている。動物を見てなぜわれわれは癒されるのか。おそらくその動物がおのれ自身に自足しているからである。
キリスト教で言う原罪、仏教で言う業とは、カルデロン (スペイン黄金世紀の劇作家、1600-1681) が言うように、生まれでたことそれ自体である。動物の原形質が喜びだとすると人間存在の原形質が悲しさであるのはそのためであろう。虐げられる動物を見て、なぜ人は魂を揺さぶられるのか。真底からの喜びの中で、人はなぜ涙するのか。芭蕉が愛した弟子丈草のこんな句もある。
さびしさの底ぬけて降る霙 (みぞれ) 哉
(9/14)