先日見つかった古い書簡群の中に、君仙子こと豊田秀雄先生のはがきが二通残っていた。一通は昭和四十五年五月二十八日付けのもの、もう一通はその翌年正月の年賀状である。五月のはがきには「御便り届いた日はちょうどお母さんとおばあさんとお出でなさっておられたので――お出でになったところに郵便はいったわけで、御一家皆さん御越しになった事になりました。ふしぎな事でした」とある。そして、団体旅行に出かけて「ゆうべかえりました。えびきがひどいので、旅行中断酒つらい事でした」とあり、いびきが「えびき」と見事に相馬弁になっているのが微笑ましい。そのころ、私たちは結婚二年目、両方の親との半年ずつの同居に疲れて、乳飲み子二人を抱えて川崎市菅に移っていた。
ところで君仙子先生は、明治二十七(一八九四)年生まれで、福島師範一年生のときから俳句を始めた。大正二(一九一三)年、水巴(一八八二-一九四六)の『智仁勇』に投句、
瑞巌寺ギヤマン見せる梅の花
榾(ほた)焚いて王者の如く座りけり
が秀逸となった。師範卒業後は故郷小高町金房小学校の校長など教師をしながらの句作三昧の生活を続け、県の内外に多くの弟子を育成していった。ちなみに金房時代、私の父稔(昭和十八年満州で死す)が代用教員として部下であった。
句の中にもそれは滲み出ているが、古武士の風格ながら実に謙虚なお人柄で、この人にそのころ書いた習作『ピカレスク自叙伝』を褒められたことが、誰に褒められたより(といって褒められることは絶えて無いが)嬉しかったことを覚えている。
と、書きながら、実は君仙子先生がいつ亡くなられたのか、思い出せないのだ。いつかこのネット上で「相馬弁保存会」というホームページを作っておられる君仙子さんの曾孫のえもすずさんやご遺族の方にいろいろお聞きしたいと思っているのだが…紙幅が無くなりそうだ、大急ぎで作品集『柚の花』に収められている作品をいくつかご紹介したい。
柚の花や繭売りすみて月夜かな
鎧干す日に風つよき葵かな
鳳仙花おなご生れて泣きにけり
※長女生まる、とあるがえもすずさんの祖母上?
菜の花に染まるほかなき農婦かな
かつをさげて行く蒼海のあらしかな
海近く明けの郭公渡りけり
世を怒り酒さめてゆく霙の街