移り住んだ町々

いったい今までいくつの町に移り住んだか。そしてここが終の棲家となるのか。実は三月まで暮した八王子の家を終の棲家と考えていたときもあった。しかし人生どう展開するか予測もつかない。
 北海道帯広市に生まれて四歳まで、次いで満州に連れて行かれて七歳まで、引揚げてきてまた帯広に十一歳まで、そして先祖代々の土地の相馬に移り住んで十八歳まで暮す。オルテガの人生十五年周期説(世代論の単位)によれば、これが私の第一期に相当するか。
 第二期は大学に入るために上京し、卒業後すぐ広島に、そこでわが精神の兵役の三年間を送り、東京に戻って大学で二年間の勉強続行、そして悟るところがあって(?)相馬に帰って二年あまり、その間結婚、二十九歳になっていた。これが迷いと変化の第二期か。
 当分は翻訳その他文筆の仕事に専念しようと思ったが、田舎で目に見える(?) 勤め口を持たないというのは実に具合の悪いことだと初めて気づいて、双子の乳飲み子を抱えて再び上京。ミッション系の小さな女子大で十五年間教壇に立った。貧しい生活の中での子育てだったが、たぶんわが人生でもっとも多産の時代だったであろう。川崎市菅、東京の保谷、そして世田谷の二子玉川と転々としたが、迷いもなく元気だった。しかし同じ職場に十五年というのは一つの節目と考え、静岡の私大の新設学科に移った。そこで五年間。まるで日本のヘソみたいな温暖な地方でのんびり楽しく暮した。家内は今でもあの時代のことを失った宝石みたいに懐かしがる。これが第三期。
 とするとわが第四期、オルテガによれば人生に於いて最も重要な時期は、静岡から八王子の、一度は決別を誓ったミッション系の女子短大に移ったときから、定年前に職を辞して父祖の地相馬に戻るまでの約十五年ということになる。教師としても研究者としても中途半端で来たので、やっと静かな環境でやり残したことの収穫に向かおうと期待したが、大学冬の時代と重なってしまった。少子化による志願者数の激減期を迎えて、大学そのものが「貧すれば鈍する」まことにえげつない時代になった。だが教師生活に踏ん切りをつけるには幸いしたと考えている。
 以上私が移り住んだ町々である。さていくつになったろうか。そして今始まった第五期を単なる余生にしたくはないと切に願っている。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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