イブの日のミサに行かなくなってから久しい。小さい時からクリスマスといえば、必ずミサに与っていたから、初めてミサに行かないと決めた時は、まるで踏絵を踏むような迷いと逡巡があったような気がする。しかしそれさえも今はもう遠い昔である。
慣れて(?)しまえば、これも一つのクリスマスの迎え方だな、と思うようになった。ひりひりするような剥奪感 (?)の代わりに、カトリックに限らずいわゆるキリスト教徒、さらには既成宗教の存在とそのあり方を客観的に眺めている自分がいるという感じである。あの群れの中に帰っていく自分の姿は、少なくとも今のところイメージすることはできない。今日も今日、新聞には現ローマ教皇のクリスマス・メッセージがお義理に新聞の片隅を飾る。「商業Xマス、原点に返れ」。なにを気の抜けた寝言を言っているんだ、と思う。今日も、あなたの直属の部下とは言えないが、しかしキリスト教文明死守を、少なくとも旗印に掲げる十字軍の武将ブッシュは、悪の枢軸抹殺・抹消を何がなんでも実現せんと、口元に泡飛ばし飛ばし、辛うじて馬銜(はみ)で制止されている。そのまわりには、全米ライフル教会、おっと違った、協会のチャールトン・ヘストンの馬面が見える。
一方わがボロ屋では、灯油ストーブの周りに馬ならぬ障害犬一匹、野良猫の子供二匹が、それぞれの厩の中、つまり犬はプラスチック製の箱の中、猫たちはそれぞれの椅子の上で、穏やかで平和なクリスマスを迎えている。なんという豊かさ、この小さなボロ屋に命が五つも、おっとバッパさんのそれも入れて六つの命がある。どんな財産より、どんな豊かさより、こうして命が生きているという事実に勝るものがこの世にあるとは、絶対にゼッタイに思えない。
だから、ローマ教皇ではないが、私もこの小さな町の小さな片隅から、全世界に向けて心からの平和のメッセージを送りたい。だから世界中の一人一人が、既成宗教のボスや政治家どもの専売特許じゃない、ささやかでしかも温かい平和のメッセージを、それぞれの場所からこの夜空に放ってほしい。
生命至上主義、現実無視の世迷い言と馬鹿にされてもいい、命こそ何にもまして尊いと大声で叫びたい。そしてこの命を脅かすすべてのものに対し、はっきり断固として「ノー」をいい続けたい。たとえゴマメの歯軋りでもいい、精一杯力の限り抵抗しながら死を迎えたい。
(12/24)