先日、「埴谷・島尾記念文学資料館」のT氏と五月から始める予定の「島尾敏雄を読む会」の打ち合わせをしているとき、彼は明日は課長とアンドロメダ忌に行くので、と言い、たぶんそういう名前の天文学愛好家の集まりでもあるんだろう、と敢えて聞き質すこともなく電話を切った。しかしすぐ思い当たった。そうだ埴谷忌のことだ!埴谷さんの本の中扉に黒地にぼんやりと渦状星雲が描かれているが、あれがアンドロメダ暗黒星雲だ。例のごとく「ヤフー」を検索したら、案の定、アテネ・フランセを会場として毎年命日の二月十九日あたりに催されてきたらしい。埴谷さんには熱狂的な愛読者が多いから、太宰の桜桃忌みたいに年々参加者が増えていくのではないか。若い人が大好きだったから、きっと地下の(天界の?)埴谷さんも喜んでいるだろう。
それで思い出したのだが、いつか埴谷さんが珍しく電話をかけてきたことがあり、それも彼が一方的に話す長電話になったことを思い出した。確かその時の話が面白いので、日記に少しメモしたのではと思い探してみた。あった、1986年11月30日(日)だった。その年亡くなった島尾敏雄の「偲ぶ会」の写真を送った礼にかけてきた電話だった。『群像』に書いた追悼文に島尾君は生涯借家住まいと書いたのだが、どうもそうじゃないらしいね、という話から始まって、先祖のことまで遡った。こんな話もした。
「…僕の母が鹿児島の出でね。祖父は西郷とか大久保を教えた陽明学者で、なにたいして優れた学者ではなかったが、ただ偉い人たちを教えたということで、名前が残っていてね。戦前には銅像があったんだが、今はなくなった。名を伊東潜龍といってね。ともかく鹿児島人は非常に郷土意識が強くて…」
「今度初めて知ったんですが、木曽川の堤防工事に鹿児島県人が駆り出されたことがあったんですってね」
「そうだ。明治政府は、鹿児島藩の力をなんとかそぐ必要を感じたんだろうね。工事責任者は工事を完了するために自分の奥さんを人身御供に供したという史実があるくらいだよ」
ここで唐突に記録は途絶えている。人一倍記憶力が弱いのに、無理して思い出したので疲れたのかも知れない。ともあれ、彼の父方(般若家)は相馬藩の重臣だったが、母方は薩摩藩の出であったことをそのとき初めて知った。あの古武士のような風格には、なるほど薩摩隼人の血が入っていたわけだ。合掌
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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