若い友人T. Y氏は、「禁煙を試みるということは禁煙について考察する(書く)ということに他ならないのではないか。逆に言えば、禁煙について書いていると、禁煙できるのではないか」と、ウェッブ日記『半端な禁煙志向者の記』で書いている。禁煙についての考察がときに形而上的な思索を促す好個の例である。ところが私自身の禁煙については初めから哲学的考察を峻拒するものであり、敢えて言うなら神秘主義的体験に属する。だから「如何にしてわれ禁煙に成功せしか」などという、頑張ればそこそこ読者のつく「ハウツー物」執筆を初めから不可能にする、その意味ではまったく面白味のない禁煙に終わってしまった。
もちろんそれなりの経過があって禁煙に至ったのではあるが……1996年4月に亡くなられた恩師の家で、その蔵書の整理を手伝っていたときのことである。もう初秋になっていたろうか。一仕事終えて夫人の用意された夕食後のお茶のとき、一服吸おうとしていると夫人に「あら…さんまだ煙草吸っていらっしゃるの」と言われた。自分とこの息子もプカプカ吸っているのに、なんでまた俺のことを、と思ったのだが、帰宅して自分の書斎でふと思った。「煙草なんて吸わなくてもいいかな」。天地神明に誓って言うが、その瞬間から今日まで一服の煙草も吸っていないのである。
部屋の中には買い置きの「セブン・スター」が五、六箱残っていたが、手に取ろうとも思わなかった(後日ゴミ箱に捨てた)。吸いたいという気持ちが完璧に消えていたのである。学生時代に吸い始めてからそれまで何百回と禁煙を試みて失敗したのに、以後なんの苦痛もイライラもなく、完璧に禁煙してしまった。くどいようただが、修道士であった時代でも二年間の修練士時代以外は吸っていた。ニコチン中毒だったとは思わないが、コンスタントに一箱半は吸っていたのではないか。
あまりに唐突かつ異常で、禁煙の模範例にもならないし、意志とは何の関係もなさそうなので意志の強さを自慢することも出来ない。残念である。先に神秘主義体験と書いたが、夫人の一言がきっかけにはなったが、夫人が何か魔術をかけたはずもない。もしそうだったら、禁煙できない人に密かに夫人を紹介してもいいのだが……ただ言えるのは、「……なくてもいいや」としみじみ心から思うこと。これは禁煙にも、もしかして浮気心封じにも効くかも知れない(おいおい何を言い出す)。
(2/19)
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ