数年前に亡くなった一人の作家の、死に至るまでの一年ばかりの記録を読んでいた。その著者(記録者)については名前以外はいっさい知らず、虚心に読んでいった。作家その人は個人的にも知っており、またその作品の愛読者でもあったので、とうぜんそこに書かれていることすべてに興味があり、ある時は死を前にしての寂しさ、またある時は肉体と精神の衰えに対する恐怖心など、身につまされる思いで読んでいった。
しかし読み進むうちに、ちょっと待て、これは少しおかしいぞ、と思いだした。簡単に言えば、死を迎える大作家と記録者の距離の取り方である。つまり臨床医や看護士のように死にゆく肉体に冷静な眼を向けているのか、それとも偉大な師の最後をおろおろしながら見守っている弟子の目で見ているのか、あるいは一つの偉大な文学のフィナーレに立ち会う文学者の目で見ているのか、ということである。
もちろんどういうスタンスで記録しようか、など計算しようがない場面かも知れない。だからこそ、その記録者の文学に対する考え方、さらに言うなら、人間や世界に対する哲学がもろに露出してくるケースなのだ。といって記録者を簡単に責めたり非難したりできるものでもない。とりわけこの作家の場合、身の回りの世話をする肉親がおらず、その面倒な世話を手伝ったこの記録者の労をねぎらわなければならないわけだから。しかしそれでもなお、この記録は一度記録者の中で熟成と濾過の工程を必要としたのではなかったか、と思わざるをえない。
作家自身、晩年にその思考力の衰えを人一倍警戒していた。しかし衰えを避けることは誰にもできず、妄想・妄語は避けえようもない。発せられる言葉と作家本人が本当に言いたいこととは日を追って齟齬を来たし、屈折し、迷路を作り出す。そのとき記録者はメモした言葉を己の中で何度も反芻し解きほぐす時間を必要とする(はずだ)。
その本の末尾に、記録者と最後に出会えたことは幸せだったという意味の老作家自筆の走り書きが写真版で掲載されているのを見て、正直愕然とした。なんだいこれは、自分が作家の最後の愛弟子であることのお墨付きのつもりで出したのかな、と疑った。宗教も哲学も文学も、いずれ人間のもっとも繊細な部分に生まれ育ち、そして伝えられるもの。だからそれがなければ、とたんに腐敗が始まるものがある。適切な言葉がないまま敢えて言うなら「含羞」である。
(2/20)
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日
- 嬉しい話のてんこ盛り(その二) 2018年12月7日
- 敗残の兵と西瓜 2018年12月2日
- 嬉しい話のてんこ盛り 2018年11月27日
- 呑空庵西漸(せいぜん)す 2018年11月25日
- おや、こんなこと書いていた 2018年11月24日
- 勘違いの連鎖(その2) 2018年11月19日
- 美子、金婚おめでとう! 2018年11月16日
- 柳美里さんからのお知らせ 2018年11月16日
- 呑空庵福島支部誕生 2018年11月13日
- ちょっと嬉しいお知らせ 2018年10月30日
- 景気の悪い近況ご報告 2018年10月26日
- 紫陽花色のソックス 2018年10月15日
- 平和構築のための強力な布陣 2018年10月12日
- 累計2,300人!!! 2018年10月8日
- 戸嶋靖昌「受難」 2018年10月3日
- 思いがけない再会 2018年9月29日
- 近況ご報告 2018年9月28日
- まるで青年 2018年9月16日
- 再度のお誘い 2018年9月16日
- 我らのモノディアロゴス君 2018年9月11日
- プライバシーという魔物 2018年9月6日
- お知らせ 2018年9月3日
- トロイの木馬 2018年8月28日
- メディオス・クラブについて 2018年8月22日
- 「焼き場に立つ少年」報道異聞 2018年8月18日
- 偉い坊やがいたもんだ! 2018年8月16日
- たまには写真でも 2018年8月12日
- あゝ腹立つー 2018年8月9日