今私たち夫婦が住んでいる古い方の棟は掛け値なしの茅屋だが、ただ一つ自慢できるものがある。小さな庭には不釣合いなほど大きな桜の木である。今年は昨年と比べて開花時期が早いのか遅いのかは分からないが、昨年引っ越してきた日(三月二十三日深夜)の朝、桜の花のあまりの美しさに思わず息を呑んだことを覚えている。近寄って見たわけではないが、今年はまだ蕾さえ見えず、同じ時期に開花するとはとても思えない。
実は引っ越し前、日光が遮られてじめじめするので切った方がいいと言う人がいるがどうしよう、とバッパさんが電話で相談してきたことがあった。その時、とりあえずは切らないでおこう、と言っておいてほんとうに良かった。少しぐらい日照条件が悪くたっていい。
でも桜の時期、いつも思い出す人がいる。その人が最後の日々を送った青梅市立総合病院の窓から見えた桜の花の美しさも目に焼きついている。今年は命日(三月三十日)に彼の家にはたぶん行けないであろう。その代わりぜひ二階縁側の花の下で酒を飲みながら彼を偲ぶことにしたい。
葬式のとき、一年前まで彼が勤めていた大学の経営陣の一人が、彼が失職し発病したあと奥さんが新宿のホテルでベッド・メーキングのバイトをしていると知って痛く同情し、学園の掃除や食堂の仕事なら簡単に見つけられるから、と請合ってくれた。しかし返事もないまま四月、五月、六月となり、そして第三日曜の「父の日」が来たとき、なぜか遺族と私たち夫婦がミサに招かれ、そのあと出前の寿司の供応に与った。遺族(奥さん、独身の長男、娘夫婦)はひたすら恐縮していたが、その時忽然と悟ったのである。なるほどこれは縁切りの儀式なんだと。恥ずかしくて、面目なくて、遺族には言えなかった。あれだけ学園のために尽くし、学生から父のように慕われた彼も、以後は年一回、ミサの中で想起される「学園の恩人」の一人に「祭り上げられた」のである。
いまその学園は何年も続く受験生激減のあおりを食らって経済的な危機に陥っている。だから今さらこの忘恩の仕打ちに抗議するつもりはさらさらない。しかし桜の花を見るたび彼の無念さをこれからも決して忘れない男が一人いてもいいだろう。死の直前に家族の同意もないまま自ら洗礼を授けながら「彼の受洗は条件付であるため、あらためて云々することはない」(原文ママ)と追悼文執筆を断った学園トップの言葉も決して忘れない。 (3/7)
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日