そぼ降る雨の中で

二階縁側から西南の方向、煙るような雨の中に国見山が、そしてそのずっと手前、というよりわが家からわずか数十メートルの至近距離に教会付属幼稚園が、そして少し身を乗り出せばクリーム色の木造モルタルのカトリック教会の屋根が見える。しかしなぜかくも近くに?
 秘密は半世紀以上も前に遡る。満州から子供三人を連れて引揚げてきたバッパさんは、親・弟妹の住む北海道帯広市にひとまず落ち着くや、すぐにカトリック教会を探した。引揚げの途次、何事かを悟ったのか決意したのか。教会など行きたくもない子供たちに、もし行けば十円やると金で釣った。洗礼前の教理の勉強のため、凍てつくような冬の夜、大柄なドイツ人神父が陋屋まで来てくれた。彼が足音を響かせて帰っていったあと、二階の窓から見た白く光る舗道が目に焼きついている。受洗は昭和24年12月24日。初めての聖体拝領なのに、直前に十字架像のキリストの裸を考えたのは罪ではないか、と暗澹たる気持ちになったことを覚えている。それはともかく、常に教会の側近くというのが、当時からバッパさんの執念になった。帯広から相馬への移住を最終的に決意したのも、そのころ原町に新しくカトリック教会が出来るとのニュースが届いたからであった。
 いや、そんな思い出話はともかく、いまそぼ降る雨の中に佇む教会を見ながら考えているのは……いつまでこの中途半端な関係が続くのか、ということである。
 すっかり縁を切ったわけではないが、とうぶん近寄るつもりもない。決定的に離れるにしろ、あるいは関係修復に向かうにしろ、自分の中で少しは考えがまとまったかと聞かれれば、恥ずかしいことにほとんど何の進展もない。ただ従来の聖職者的・位階的な(eclesiastico)教会組織には戻りたくない、ということだけ。イリイチは、脱学校、脱病院の思想を展開したが、とうぜんその底に脱教会、脱教階制度の主張があったはず。水面下ではかなりのスピードで解体が進んでいるのに、公式ホームページを覗けば相も変らぬ「教勢」の報告。16の教区(うち大司教区3)、信者数445,240人(うち聖職者・修道者・神学生9,296人)。信者数には、南米やフィリピンからの一時労働者とその家族が相当数含まれているはず。従来通りの「教会」に固執するかぎり、その未来は暗そうだ。でもみんなも勇気を出して一度「単独者」になってみない? 自律共生の新たな連帯が見えてくると思うよ。
(3/8)

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください