酔生夢死

いつもの通り退屈な学会である。昼休みに食事がてら町に降りていった友人たちは、どうやらそのまま戻ってこないようだ。彼らについて行けばよかった、と悔やんだが後の祭り。そのうち午後の部が始まってしまった。私の属する分科会は場所が取れなかったらしく、屋上のプレハブでやるという。狭い階段を上がっていくと、鉛色の空の下、小雨も降っている。それでなくても狭いプレハブの中は室温と湿気でむっとしている。こんな所に五分とは我慢できるかどうか。それにしても天井が低く、後ろから押されるようにして入っていくのだが、前屈みにならなければならない。何人かは顔見知りだといっても、こんなところで膝と顔を付き合わせたままで最低30分は過ごさなくては、と思うと、とつぜん息苦しくなり、恐怖のあまり大声で叫んだが、いつの間にか土砂降りになった雨音にそれもかき消されてしまう……
 廊下越しに見たら、五人ほどの女子学生が待っている。とりあえずは講座として成立する、とホッとした。一人しか受講者がなくても授業をやるつもりだったが、これで事務局と最低受講者数(三人だったか?)をめぐって争わなくてもいいいわけだ。もちろんこの五人といえども、おそらくは真空恐怖(horror vacui)のための受講だろう。つまり空き時間を埋めるための。ともかく今日は顔見世興行、簡単に授業内容や進め方を説明したら、出席票代わりに自己紹介でも書かせようか、と思っていたのに、肝心の用紙を持ってくるのを忘れていた。学生たちに待つように言って急いで教室を出たが、事務室への道が分からない。長い休みがあって、その間大幅な改築工事があって、その知らせをついうっかり見過ごしていたのか……
 下り坂なのに、足が進まない。積雪があったわけでもないのに、どうしても足が動かない。昔から時おり、膝関節がすっぱくなって立っていることができないという夢を見てきたが、とうとうそれが現実のものとなったのか。ともかく何かを取りに行かなくては(はてそれは何だったのか?)と思うのだが、膝関節がすっぱくなっていて前に進まないのである。車の轍のようなところに500円硬貨が落ちている。一枚だけじゃなくて、袋の裂け目から等間隔に落ちたように、次々と落ちている。あゝ、むかし子供の時の夢では十円銅貨だったのが、この歳になって少し格上げかなどと考えながら、それでも嬉しくて腰をかがめて拾おうとしている……。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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