私の机から国見山の方を眺めるたびに目に入る青桐は、冬の間はすっかり葉を落としていたのに、このごろでは見る間に葉を大きく茂らせて視界を遮っている。青桐で思い出したが(というのは嘘で実際は順序が逆)わが家の本の一部には中扉と小口に4センチ四方の「青銅文庫」という蔵書印が押されている。確かバッパさんが近所の子どもたちのための小さな図書館を作ろうとして考え出した名前のはず。このあたりの記憶は曖昧だが、私自身この蔵書印を押すのを手伝った記憶が蘇ってきた。となるとJ会を出て帰郷した昭和42年秋から結婚した翌43年の秋にかけてのことか。
いやそんなことよりここで書きたかったのは、その青桐文庫の一冊、中公版『日本の詩歌23(中原中也・伊東静雄・八木重吉)』の中に、さんざ探し回った詩の一節を見つけたことである。
死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
中也の「山羊の歌」の一節である。つまり最初このいかにも八木重吉風の詩を、筑摩書房版の三巻本全集の中に探し回っていたのである。実はこの全集はバッパさんのもので、ぱらぱらとページをめくったところ、中から八木藤雄さんという方からバッパさん宛のはがき(1991年10月26日付け)が見つかった。八木重吉鎮魂の「茶の花忌」への手書きの招待状で、文面から判断すれば前から面識のある方らしい。そういえばあの頃、つまり八王子に越してまもなくのころ、バッパさんが上京のたびに何度か町田市の八木重吉さんの遺族宅を訪ねたような気がする。
八木重吉などという謙譲の(?)詩人のどこにバッパさんが惹かれたのか、これがまず謎である。きっかけは何だったのだろう。さきほど挙げた中公版『日本の詩歌23』を見ると三人の詩人の中では八木重吉をいちばん読んだ形跡がある(実際読んだかどうかが歴然とするのは、本の底 [専門的には地と言う] を見るとよく分かる。つまり小口は手が汚ければ汚れるが、地は読む回数によって汚れるから)。今では時おり権勢症候群の片鱗を見せるバッパさんにもこんな詩が好きだった一時期もあったことに驚いているのだ。
ひかりとあそびたい/わらったり/哭いたり/つきとばし
あったりしてあそびたい(光)