朝方、階段を下りて行くと、バッパさんが大きな声で電話している。ふだんは決して立ち聞きすることはしないのだが(本当です)、その時はつい聞くともなしに聞いてしまった。どうも相手は市の職員らしい。「まあこんなこといくら職員の方に言っても仕方ないことだけど……」。聞いたのはそこまで。それから二階に引き返し(これ本当)、話が終わりそうなころを見計らってまた下りて行った。それから二十分ほどのバトル。つまりもういいかげんいろんなことに口出すのはやめたらどうか、という毎度繰り返している諌言(カンゲンなどと難しい言葉を使って逃げたが、要するに口汚い親子喧嘩)。
だから夕食後、引揚げ時のことをバッパさんに聞き出すことにすごく抵抗があったけれど、大事なことなので我慢我慢。かなり新しい事実が分かった。以前、夕陽の中、鉄路にへたり込んだ日本兵のことを書いたが、あれは朝陽であったこと。つまりランペイからトラックでまず承徳へ、そこから汽車でそのころ張北から朝陽に移り住んでいた叔父の一家を訪ねたときのことらしい。
ランペイを出たのは八月十日ごろで、とうぜんその時はまだ敗戦は決まっていなかった。しかし日本人たちのあいだに、ちょうど死に行く動物の微妙な体温の低下を察した虱のように、満州脱出の動きが始まったのであろう。叔父の家のことはぼんやりと思い出すことができる。大きな木にブランコが下げられ、トマトの食い過ぎのために(と自分では信じていた)口の周りに出来たオデキを気にしながらそのブランコに乗ったこと、どこまでも続く黄色い麦畑(?)の上空低くソ連の飛行機が飛んできたことなど……。
合流した二つの家族は朝陽から錦州まで汽車で行き、そこの「日本亭(閣ではなかった)」という大きな建物に収容された日本人たちに合流する。大きな階段があり、二階には小さな小部屋が並んでいて、おそらくかつての料亭と思われる。そこでの避難生活がどのくらい続いたかは聞き漏らしたが、それほど日をおかずにいくつかのグループに分けられ、私たちは郊外に立ち並ぶ二階建ての校舎のような所に移ったはずだ。そして翌年の五月、つまり引揚げのための最終拠点である葫蘆島に移動するまでの半年近くをそこで生活することになる。アメリカ煙草を道端で売ったり(ある日全部ひったくられたこともある)、壷に入った辛子の汁の訪問販売をするバッパさんに付いて行ったのもその時である。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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