安部公房(大正13年生まれ)よりも年下で満州体験のある作家ということで調べて見たら、少なくとも二人いた。五木寛之と吉田知子である。五木については満州生まれ(昭和7年)であることはかすかに知っていたが、彼に満州体験を描いた作品があるかどうかは知らない。吉田知子(昭和9年、浜松生まれ)は『無明長夜』という作品で芥川賞を受賞したことをぼんやり記憶していたが、作品は一切読んでいない。それで数日前、インターネットの古本屋で彼女の二つの作品を注文してそれが今日届いた。ドキュメンタリー『大興安嶺死の八〇〇キロ』(1978年)と三つの短編を収録した『満州は知らない』(1985年)である。前者は純然たる聞書きによる記録だし、短編集もぱらぱらページをめくった限りでは、彼女自身の幼少女体験をもとにした作品ではないようだ。敗戦時、五木は13歳、吉田は11歳である。自己の体験を記憶の中から再構築するのはやはり難しいのか。だとすると敗戦時6歳の私にはさらにハンディがあるということになる。
いやいやそんな有名作家たちと張り合うつもりはさらさら無い。ただ自分自身の問題として、可能なかぎり記憶の中の空白部分を埋めたいだけなのだ。そんな意味でもう少し、かすかな記憶の回路を彷徨ってみる。
バッパさんが奉天の病院に入っていた期間、その町に住む大伯母の家に預けられたことは先日書いたが、その家のことは少し覚えている。入院前にバッパさんに初めて連れていかれたときのようだ。夜である。暗い電灯に照らされた玄関口からすぐの座敷には、飾り物がいっぱいの茶箪笥がいくつか並び、その夜、Aちゃんがブリキの缶に入ったグリコのおまけを自慢げに見せてくれた。
この私の祖母の姉夫婦には子どもがないためAちゃんは貰い子だったから、思いきり甘やかされたらしい。色の白いハンサムな子で、いつ片足が悪くなったかは聞いていない。大伯父は製薬会社勤務だったから強制送還を免れ、帰国はずっと後だったはずだが、一家が帯広の祖父の家で私たちと同居するようになったときにはすでに亡くなっていた。ともかくその時Aちゃんは片足が不自由になっており、膝の裏の白い肉に大きな傷跡があった。同居期間はそれほど長くはなかったが、喧嘩の際など足のことでひどい言葉を吐いたような気がしてならない。大伯母の死のあと、彼がグレたとの噂を風の便りに聞いたが、その後どうなったかは誰も知らない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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